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2008年12 月15日 (月曜日)
川崎市等々力緑地で川崎退団選手の手作り送別会:2500人が別れを惜しむ
ありがとう、新天地でもがんばって——川崎市中原区の等々力緑地で12月13日に今シーズン限りで川崎を退団する5人の選手の送別会が開かれ、2500人を超えるサポーターが集まり、選手との別れを惜しんだ。
写真=コールに答える退団選手(右から箕輪、我那覇、鈴木、原田、都倉選手)
「選手ありがとうの会」と名づけられたこのイベントは、J2時代からチームを支えてきた我那覇選手らに思いを伝えたい、きちんと見送りたいとの声を受け、同クラブ最大のサポーター団体「川崎華族」有志らがチームの全面的協力で手作りで主催。会場は、午前8時30分から各選手に渡すフラッグにメッセージの書き込みの受け付けが行われ(写真左上:撮影山本真人)、特設ステージの周りには持ち込まれた横断幕などが張られた。昼過ぎには、タオルマフラーを付け花束などを持ったサポーターが多く集まり、ステージの周りを取り囲んだ。なかには27番と昔の背番号のレプリカユニフォームを着た古くからの我那覇サポーターもかなり見かけられた。
午後3時からの送別会には、生え抜きの我那覇和樹、コンサドーレ札幌に移籍する箕輪義信、ユース上がりの都倉賢(写真右:撮影山本真人)と鈴木達矢、原田拓の5選手が参加。等々力競技場でスタジアムDJを担当するあべはるこさんの進行で、ファイト!川崎MCの木口美和子さんが各選手の経歴やエピソードなど披露、ひとりひとりステージに上がってあいさつ、ゆかりのある人が花束を手わたした。
少年時代に所属した津田山FCの選手80人(写真左:撮影山本真人)が歌う母校の上作延小学校の校歌を笑顔で聴いていた箕輪選手は涙を浮かべ しばらく言葉をつまらせながら 「僕が子どものころサッカー
がここまでメジャーになるとは思わなかった。こんなに多くの人が集まってくれるまでにしてくれたにいたことが幸せです。若手が生長するためにイスを明け渡すことが必要と思い、みなさんに何も告げず(レンタル移籍に)行ったことをお詫びしたい。長い間不器用な人間を応援してくれ、ありがとうございます。川崎は優勝できるチームなので別の場所で応援します」とあいさつ(写真右:撮影山本真人)、もらい泣きするサポーターも多かった。
J2時代の川崎に入団してもらうため何度も沖縄に通ったという当時スカウトだった大神田仁さん(写真左)から花束を受け取った我那覇は、うっすらと涙を浮かべ「右も左もわからない僕を10年間成長させていただい
たを誇りに思います。違う場所でサッカーを続けます
が、これからもよろしく」と感謝の言葉を述べると、会場からは大きな我那覇コール(写真右)がわきあがった。
都倉選手は「川崎にいたことが僕の財産です。心残りは育ててくれた川崎に恩返しができないのが残念ですが、これから先、川崎の選手はすばらしいと言ってもらえるようがんばります」と笑顔、ユースを含め11年在籍
した鈴木選手は「どこかでサッカーが続けられたら、ここにいた3年間を思い出します」と話した(写真左上:撮影山本真人)。移籍の経験を2回持つ原田選手は「ぼくのような選手を取ってくれてうれしかった。またオファーをいただけるようプレーにみがきをかけます」と力強くあいさつ。
選手らはその後、1時間以上かけて長い行列をつくるサポーター1人ひとりと握手(写真右。手前中央は原田選手:撮影山本真人)、花束やプレゼントを受け取り言葉を交わした。
主催した川崎華族の山崎真代表は「初めての試みで、こんなに大勢の方に来ていただき感動しています。長くチームを支えた選手達に愛着を感じているサポーターの思いを伝えたいと1週間前にクラブと話し合いました。クラブを始め多くの方の協力で、33あるJリーグの模範となるような送別会が実現できたことを感謝しています。出会いには別れは付きものだが、これからも見届けるというサポーターの気持ちが選手に伝わったと思います」とホッとした表情で話した。
箕輪選手は「川崎らしい温かさで、別れの言葉が言える機会を作ってくれたことに感謝したい」、我那覇選手は「選手とサポーターの距離が近いことを改めて感じ、よかった」とにこやかに話した。
2008-12-15 in 02)イベント・催事, 09)市民活動, b) 川崎市のニュース, b5) 川崎市中原区, スポーツ | Permalink