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2011年4 月 8日 (金曜日)

川崎市麻生区に日本映画大学が開校 : 初の映画専門の単科大学、新入生166人参列し入学式

110405eigadaigaku01 川崎市麻生区白山の旧白山小学校の跡地にことし開校した「日本映画大学」(佐藤忠男学長)の入学式が4月5日に川崎市麻生区の麻生市民館ホールで開かれ、1期生166人が映画作りへの夢を膨らませ式に臨んだ。

写真=式辞を述べる佐藤学長

式典ではまず、参加者全員が起立して3月11日に発生した東日本大震災の犠牲者に黙祷を捧げた。同大によると、新入生の中には被災地からの学生もいるという。
110405eigadaigaku02 開会の辞で、映画監督・脚本家の天願大介学科長が「大変な時代になりました。いま、幻想の上におごり高ぶり繁栄してきたことが判明しました。君たちもそれを理解し、安定したものを捨て、あえて映画という不安定な道を選んだことに、まずはおめでとうと言いたい」と前置きし「過去、大変な時代のなかですばらしい作品が生まれました。これから日本がどんな作品を生み出すのか、世界も注目しているはずです。手取り足取り教えるような大学ではないので、欲しいものは自分の手で勝ち取ってほしい。われわれは君たちより多少の経験があるので、それを君たちが引っ張り出せれば有益な時が過ごせる。創作の現場はお互い真剣勝負で、大きな転換期に入学する君たちと一緒に新しい時代を作っていきたい」と話した。
続いて佐藤学長が「日本映画学校ができてから30数年の歴史の上にこの大学ができた。映画を学ぶのは技術の習得ではなく、人間、社会、世界を学び、どういう世界観を持つかということが大切。学生が作る映画はすべて見ているが、(前身の日本映画学校時代に)民族差別問題でおとなの作家より学生が時代をリードしたこともあり感動した。専門学校から大学になり、知的刺激が増える。映画が果たすこと、やるべきことは多い」と開校にあたっての考え方を披露した

来賓を代表して阿部孝夫・川崎市長が「いま、大震災の映像をリアルタイムで見る、まさに映像の時代です。映画学校の創設者今村昌平監督から『4年生の大学を作りたい』という熱い思いをうかがってから8年たち、ようやく開校したことは感無量です。第1期生のみなさんは、今村監督の思いに応え、充実した学生生活を送り、すばらしい作品をつくってほしい」と激励した。
その後、指導教官を一人ずつ紹介、カリキュラムの説明などのガイダンスを行い、学生証を交付した。
110405eigadaigaku03 初めて一人暮らしをするという新入生の藤井謙さんは「映画が好きで、好きな監督が教授だったので、この学校を選んだ。スポーツ系の映画監督になりたい」と将来の夢を話した。フランスの芸術系の学校で勉学中に日本映画大学の設立を知って受験したという韓国人留学生のyun sang sookさんは「基礎からしっかり学べると思って選びました。将来は監督になりたい」を目を輝かせていた。新入生の中には中高年の人もおり、働きながら通うという60代前半の男性は「人生の残り時間はまだたっぷり残っているので、おもしろいことをしたいと考え、専門学校時代から知っていた学校が大学になるのを機に入学しました。仕事のやりくりをしながら、孫世代の若者に混じって学ぶのは楽しいそう」と目を輝かせていた。
同大学は、テレビにおされて映画産業が斜陽に陥った1975年、今村監督が横浜駅前に2年制の「横浜放送映画専門学院」を開校、1985年に校名を「日本映画学校」に改め、その翌年、川崎市麻生区の小田急線新百合ヶ丘駅前に新校舎を建設するとともに3年制の専門学校となった。
2010年秋に文部科学省の開校の認可を受け、映画学科のみの単科大学として2011年に開校、日本映画学校は、在校生が卒業するまでの2年間、存続する。
大学のキャンパスは、児童数の減少による小学校の統廃合で空いた同区白山の旧白山小学校を改築して整備、敷地内に今村昌平記念スタジオなどを新設した。

写真=映画大学のキャンパス(日本映画大学提供)、学生証を受け取る新入生

 

2011-04-08 in 02)イベント・催事, 04)教育・子ども , 07)文化・芸術, b) 川崎市のニュース, b1) 川崎市麻生区, 映画 | Permalink

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