新潟県中越地震で、大きな被害を受け、全村民が避難することになった山古志村。
山古志村復興支援のため、川崎市内では11月27日と28日に山古志村が舞台となった映画「掘るまいか 手掘り中山隧道の記録」上映会が開かれる。
この記録映画の監督・橋本信一さんから、11月6、7日に被災地山古志村を訪ねた時の様子を書いた原稿を寄せていきただました。
写真=映画を撮影中のスタッフ(右から3人目の白いTシャツが橋本信一監督)
◆生き続けている強靭な山古志スピリット
「掘るまいか 手掘り中山隧道の記録」監督 橋本信一
2004年10月23日、新潟県中越地方を襲った大地震によって長岡、小千谷、川口など中越地域は甚大な被害を受けた。その中で全村避難を強いられ、壊滅的な被害を受けた村として全国にその名が知れ渡った村がある。山古志村である。
家屋の倒壊、ライフラインの寸断、ヘリコプターで撮影された生々しい惨状は日本中に衝撃と哀しみをもたらした。
美しい棚田が広がり、日本の原風景のような村がこのような形になってしまったことを僕は未だに信じられないでいる。悪い夢を見ているのではないかという感覚がどうしても抜けないのだ。
地震のあと、すぐにでも飛んでいきたかったのだが、連絡が取れないことや、道路が封鎖されていたこともあり、現地に行けたのは地震から2週間ほど経った後のことだった。
やっとつながった関越自動車道の長岡ICを降り、山古志村の方々の避難先になっている長岡市内の高校に向かった。避難所に行く前に立ち寄った村の対策本部で旧知の役場職員に会い、思わず駆け寄り、手を取り合った。役場職員の方の話では、とにかく凄い地震だったという。爆弾が落ちたかと思ったそうだ。下から来る縦揺れの後、凄い横揺れが来て立っていられなかったらしい。瞬時に電気が消え、電話も通じなくなった。今、何が起こったのかわからない状態の中で、みな外に出て車のラジオを聞いたという。しかし、地震が起こったことは理解できたが、山古志村の情報は報道でも伝えられなかった。
村の方々は情報が入ってこない中、暗闇の中でひたすら耐えた。
数日後、自衛隊のヘリが来て、やっと状況を理解できたそうである。役場の職員も大変だったようだ。全村避難を村長が決定したのち、2100名の全村民の避難先の確保に忙殺された。しかも、携帯や電話が使えないので、役場職員が自らの足で駆けずり回り、それこそ寝ないで奔走し、死ぬような思いで関係諸機関に連絡を取り、確保したという。
ある役場職員は4日間一睡もできなかったそうだ。
対策本部を出て、避難先である長岡高校に向かう。長岡高校には山古志村の多くの集落が集落単位で避難、ふとんひとつが自分のスペースという窮屈な状態での避難所生活を送っていた。映画の舞台になった小松倉集落の方に会い、思わず抱き合った。僕等映画スタッフにとっては、小松倉の方々は親戚や家族と一緒である。ただ、手を握り合い、みなさんの無事を喜んだ。
地震当日の話やこれまでの話を小松倉の方々は、一生懸命話してくれた。家族とバラバラで不安だったこと、山の地形が変わってしまうほどの激しい土砂の崩落のこと、そして、今後の生活の不安・・・。
隣の集落の方のこんな声も聞かれた。「これだけの甚大な災害から村や県単位で復興するのは難しい。マスコミもふくめて何か表現の手段を持っている人間たちが、この大災害を伝えつづけること、決して忘れないように長く国民に伝えつづけてほしいんだ・・・。」
一方、村の方々のこんな言葉もあった。
「これは天災であり仕方ない。でも俺たちは必ず復活するし、村も必ず復興させてみせる。
神様が与えた試練なのかもしれん。まだまだ楽隠居はさせないとね。」
僕はそういって苦笑する村人を前にし、返す言葉に窮した。
またこの村人はこうも言った。
「道が修復できないのなら新しい道を山を削って作ればいい。集落も復興も新しい区割りを考えるくらいの大胆さでやるしかない。ニュー山古志村を作るくらいの気持ちにならなきゃできないよ。」
この発想が出てくる強さはどこからくるものなのか?どんなに苦しくても前を向いて進もうとする山古志の人の強靭な精神力に僕は感動した。
でも、確かな地域コミュニティが生きている山古志村ならどんな困難も克服していけるのではとも思える。現に体育館でのプライバシーを確保する衝立は逆効果だからいらない、という村人の意見がそれを証明している。お互いをよく知った者たちの顔が見えるからこそ安心できるのだという。この村には様々な苦境をともに乗り越えてきた確かな村落共同体の絆が生き続けていると実感した。
5年後、この村がどのような奇跡の復興を成し遂げているか。僕は映画「掘るまいか」の制作を通じて感じた不屈の山古志スピリットが今も生き続けていると信じている。
写真=映画の舞台となった山古志村小松倉集落の地震前の風景(写真下)
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