狛江市と新潟県川口町がふるさと友好都市交流締結20年を機に、新たな交流と中越地震復興を目的に、川口町の農家が古くから続く棚田を守るため共同で米を生産して出荷する「棚田オーナー」制度を今年度から実施、狛江市民限定でオーナーを募集している。
写真(川口町提供)=新潟県川口町の棚田
棚田を作っているのは2004年10月の中越地震の震源地にあたる川口町武道窪(ぶどうくぼ)地区。甚大な被害を受けた同地区では、新潟県の山間部で古く
から続けられている「棚田」を守ろうと、2005年秋に農事組合法人グループファーム武道窪を設立した。法人は、点在する集落の棚田を法人の1農場とする
ことで農地の復旧や米の生産作業の個人負担を軽減、離農者を防ぐことを目的にしており、面積は約9.2ヘクタールで被災地の復興モデルとして注目を集めて
いる。
棚田オーナー制度の農地は、5000平方m。50%以上の減農薬・減化学肥料で徹底した管理で米を育てるところだけに認めている新潟県認証
の特別栽培米(川口産こしひかり)をオーナーの参加もまじえて栽培する。オーナー制度は、金額、面積、特典が異なる(1)10万円コース500平方m玄米
180kg、(2)6万8千円コースは300平方m玄米120kg、(3)3万5千円コースは150平方m玄米60kgの3種類(送料、精米代は別)があ
り、いずれも田植え、稲刈りなど農業体験のイベント参加が可能。
申し込みは、狛江市役所などに置かれている申込用紙か、メール
(nouson@town.kawaguchi.niigata.jp)で、申込者の指名、電話番号、メール番号、希望のコースと口数を書き4月30日ま
でに送る。メール申し込みは川口町のホームページ(http://www.town.kawaguchi.niigata.jp/)。
問い合わせは電話0258(89)3113川口町農業振興課。
都会の子に雪遊びの楽しさをと川崎市幸区鹿島田の新川崎駅前の新川崎グランド横の空き地で2月18日、「旧山古志村の雪と遊ぶ会」(同実行委員会主催)が開かれる。
このイベントは、2004年の新潟県中越地震で大きな被害を受けた旧山古志村出身で、同区で食品会社を経営する星野堅七さんが昨年「震災時に支援してくれ
た幸区の子どもたちに雪遊びを楽しんでもらいたい」と昨年冬に幸区子ども会連合会などに働きかけて実行委員会を結成。星野さんがトレーラーで雪を運び、子
ども達は同会が用意したソリや小さなバケツでカマクラ作りなどをして遊び、好評を呼んだ。当初は1回限りのイベントだったが、参加した子どもの多くが、こ
の体験を作文に書いて発表、ことしも催されることになった。
当日は、トレーラー10台分約300立米の雪が会場に運ばれる。開催時間は午前9時から午後3時まで。
参加は自由で、低学年の児童や幼児は保護者の同伴を呼びかけている。
問い合わせは電話090ー3598-7953幸区子ども会連合会副会長 上原さん。
特別寄稿
山古志復興支援イベントによせて 橋本信一監督
私たち「KAWASAKIしんゆり映画祭」は、地域に根ざした市民映画祭として10年前に始まった映画祭です。
これまで映画という文化を通じて川崎の町を芸術のまちとして育てるためにさまざまな取り組みをして参りました。
その歴史の中で、当映画祭運営委員のひとりであるわたくし橋本信一が監督した映画「掘るまいか」を通じて山古志村と当映画祭の深いつながりが生まれました。地震に見舞われる前にも山古志の方々を川崎にお招きし、楽しいイベントも一緒に開催してきました。
中越地震に襲われた昨年以降もさまざまな形で我々なりに支援活動を続けてきました。昨年、行った「山古志復興支援イベント」もそのひとつです。
私たちは、新潟中越地震から1年を迎えようとしている来月10月1日(土)、新潟中越地震からの復興をめざしている旧・山古志村(現在・長岡市山古志地区)の再建を応援するために映画の上映とイベントを再度開催することとしました。
2004年秋、突然、山古志村を襲った新潟中越地震。あの日、何が起きたのか?
村の人たちは何を思い、どう行動したのか?そして、今現在は・・。・
報道も少なくなる中で私たちは、山古志村のリアルな現実を実はよく知らないのが実状です。
「忘れないぞ山古志」をテーマにさまざまな角度から検証し考えてみたい。それがこの企画の出発点です。
当日は、山古志住民の証言に加え、自衛隊による住民救出映像、新潟県危機管理防災課が災害直後に上空から撮影した
生々しい未公開映像を同時上映。再建への未来を山古志村からのゲストの方々とともに考えます。そして、全国各地でいまだに上映が続いている山古志村の映画「掘るまいか」も上映します。
実りのあるイベントにしたいと思っておりますので、皆さんのご来場をお待ち申し上げております。どうぞよろしくお願いします。
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中越地震の被災地小千谷市と川口町に支援をと、川崎市内の美容師ボランティア団体「PRIC(プリック)」(菅原司郎代表)が8月2日、支援高津区溝口の生活文化会館「てくのかわさき」で恒例のチャリティカットを行った。同会がチャリティーの支援先を被災地にした初めて。
臨時美容室となったのは同館ホール。床にビニールシートを張り、会議用の机には卓上鏡を置いただけのシンプルな設営だが、カット1000円、マユ手入れ500円とあって、午前10時の開場と同時に次々と客が訪れ、ピーク時の昼過ぎには10数人が順番待ちするほどの人気。
料金は格安だが、参加した美容師さん同士が互いの技術を競う機会にもなっており、この日を楽しみにしている常連客も多い。今回は約150人にのぼったが、夏休み中の3人の子どもと訪れた同区上作延の小澤恵子さんは「毎年違う美容師さんと話をするのが楽しみ。短時間にすばらしい技術で夏向きの髪型にしてもらいとてもさっぱりした」と笑顔で話していた。
同会は、美容師の技術を提供して社会貢献をと毎年チャリティーカットを実施、収益を社会福祉団体に寄付している。社会貢献は年1回だったが、昨秋、新潟県県中越地震が起きた際、「地震の被災者に気分転換と早く日常生活を取り戻してもらいたい」と同会代表の菅原さん(写真右)が仲間に呼びかけ、小千谷市や川口町の被災者が避難生活をしている体育館などにチャリティーカットのノウハウを持ち込み、カットや七五三の着付けなどのボランティア活動を数回行った。こうしたことから、9回目の今回は、復興に向かってがんばっている両自治体を引き続き支援することにした。
会場では、菅原さんらの活動を紹介したテレビ番組のビデオ上映や写真を展示。この日参加した42人の美容師のほとんどが新潟でボランティアを体験しており、客にその経験談などを語っていた。客の中には決められた金額より多く払う人もおり、集まった約15万円は小千谷市や川口町に贈られる。
狛江駅前のエコルマホールで1月29日、狛江市内の4つの地域センターの初の合同発表会「狛江の文化・芸術の祭典 がんばれ!川口町」が催され、900人を越える市民が参加した。会場には、新潟県中越地震で大きな被害を受けたふるさと友好都市の星野和久川口町長が訪れ、矢野裕市長から義援金1000万円の目録を手渡された。
祭典は、野川・上和泉・岩戸・南部の各地域センター運営協議会が、他のセンター利用者との交流を深め、合同で大きな催しを行おうと昨年春に企画、実行委員会を作って主催した。初の祭典を記念し、文化を通してふれ合いを深める「川口町の支援」を呼びかけ、支援・救援パネル展や義援金の受け付けを行い、約18万円の義援金を集めた。
星野町長は狛江市民の支援に対して直接お礼を述べたとこの催しに参加。開会に先立ちステージに登って深々と頭を下げて謝辞を述べてから現地の生々しい被害の状況、被害直後の不眠不休に続き地震計を備えた部屋での仮眠など自らの体験を交え「生活全体が破壊されたなかでは、1自治体では何もできない。応急生活ができるようになったから、はじめて中・長期の復旧・復興にむけて仕事に取り組めた」などと語った。
ロビー入り口付近には、狛江郵便局の協力で「絵手紙発祥の地・狛江から川口の町民を励そう」と絵手紙体験コーナーを設け、東野川に住む日本絵手紙協会・小池恭子さんと絵手紙サークル「ポップアップ」「野ばら」の有志が制作を指導。親子連れから熟年まで幅広い年代の市民が次々訪れ、短時間で野菜やポストなどの絵に「春よこい」「風邪ひかないで」などぬくもりのある言葉を添えて作品を制作した。絵手紙初体験の記念にと持ち帰った分を除き、約60通の絵手紙は、小池さんの手紙を添えて、川口町役場に贈られた。
ロビーには各センターで活動する14団体がペン習字、水墨画、俳句、書道、陶芸、油絵、折り紙、刺しゅう、フラワーアレンジメント、染色などの作品が展示され、熱心に見てまわり市民が多かった。
ステージでは、24団体が民謡、詩吟、舞踊、フラダンス、ジャズダンス、カラオケ、コーラスなどのほか一風変わった帯の結び方を披露する着物着付けなど日ごろの成果を大舞台で披露した。出演団体のほとんどが各センターで活動するグループの単独発表だったが、岩戸地域センターの「扇の会」と野川地域センターの「麻乃会」は、この日のために殺陣と踊りで構成する創作舞踊「それは恋」を合同で発表、客席からは出演者に大きなかけ声がかけられていた。
フィナーレは、被災地の1日でも早い復興への祈りを込め、狛江マンドリンギタークラブの演奏、手話ダンス「レインボー・ステラ」の踊りで、観客が「見あげてごらん夜の星を」を歌った。
合同作品を手がけた野見山栄子実行委員長は「開催が危ぶまれた時期もあったが、川口支援をきっかけに4つの運営協議会の協力体制や参加団体の意識も変わり、大勢の参加で楽しいひとときを過ごせ、初の祭典を無事に終えることができた。毎年は無理でも、またこうした機会を作りたい」とほっとした表情で語った。
狛江市内の4つの地域センター運営協議会が主催する「狛江の文化・芸術の祭典」が1月29日、エコルマホール(小田急線狛江駅前)で催される。
市内にある上和泉、南部、野川、岩戸の4つの地域センターでは、これまで各館ごとに利用者による発表会を催してきたが、初めて合同の発表会を催すことになった。
展示では、14団体がペン習字、水墨画、俳句、書道、陶芸、油絵、折り紙、刺しゅう、フラワーアレンジメント、染色などの作品を午前10時から飾る。
午前11時からのステージでは、民謡、詩吟、舞踊、フラダンス、ジャズダンス、カラオケ、コーラス、着物着付け、殺陣、バレエ、手品、手話ダンス、マンドリンとギターなどを24団体が披露する。
今回は「がんばれ! 川口町」と題し、新潟県中越地震で大きな被害を出したふるさと友好都市への支援を呼びかける。会場では午前11時に星野和久・川口町長が狛江市民の支援に対してお礼のあいさつ、同時にこれまでに寄せられた約1700万円の義援金のうち、残りの約1000万円を町長に渡す。このほか、絵手紙コーナーでは小池恭子さんの指導で川口町の町民を励ます絵手紙の創作や支援・救援パネル展、義援金の受け付け
も行う。
問い合わせは電話03(3430)1111狛江市役所市民協働課。
狛江市のふるさと友好都市川口町を襲った激震の被災者を支援しようと市内の音楽愛好家らが12月24日、エコルマホールでクリスマス・チャリティー・コンサート「一緒に頑張ろう 川口町」(川口町被災者救援クリスマス・チャリティー・コンサート実行委員会主催)を開催、のべ800人が入場した。入場料や会場の募金箱に集まった71万946円の義援金は、川口町との交流を担当する狛江市市民協働課に手渡され年明けに現地に届けられる。
写真=義援金を渡す渡辺文子実行委員長
「被災地の人々が少しでも気持ちのいいお正月を迎えるられるように」と催されたコンサートは短期間の呼びかけと準備にもかかわらず、ことしから部活が始まった狛江第二中学校合唱部、狛江高校吹奏楽部、市内の合唱団や吹奏楽団、9月に結成したばかりのお父さんバンド「BABY STEP」、舞踊グループ、太鼓グループなど19団体と1個人が参加した。
ウィークデーのため、社会人などの出演時間に配慮して午後3時半からと5時45分からの2部構成で開かれた。舞台では、幼児から熟年までさまざまな年代の400人余りの出演者が、予定時間を大幅に越え約6時間にわたってクラシック、ジャズ、クリスマスソング、バレエ、ミュージカル、和太鼓などバラエティーに富んだ演奏や演技を繰り広げた。
フィナーレ前には和太鼓に出演した豊鼓(ほうこ)、きんたの会、跳鼓舞(ちょうこま)の3団体が合同でロック・ソーランを熱演、また1部と2部の最後には、寒さや雪で多くの困難を抱える被災者へが穏やかな日々を過ごせるようにとの祈りを込め、コール・レイネ有志と調布狛江合唱団による手話コーラス「ふるさと」「Believe」を観客とともに歌った。
1部と2部の間には、松原・市民協働課長が10月23日の地震当日から翌日の24日に第一陣が出発するまでや現在の川口町の様子、被災地での余震体験などを報告した。
この日は、クリスマス・イブで家族と過ごすなど予定の人も多かったが、出入り自由なため買い物などの用事を済ませてから再び客席に戻って観賞する熱心な人もいた。
ロビーでは、サンタの衣裳をまとった出番前の出演者らが、小さな子どもを相手にクイズなどで楽しませていたほか、展示された被災地の写真や新聞報道を見る市民も多かった。
実行委員長の渡辺文子さんは「予定していたより多くの参加者と金額が集まり、すごく感謝している。狛江市民も一緒にがんばっているという思いを伝えるため、MDとビデオも川口町に届けます」と話していた。
写真・下=フィナーレの手話コーラス
新潟県中越地震の被災地・小千谷市で11月4・5日に一般ボランティアとして活動した川崎市議会議員(多摩区選出)の三宅隆介さんから記事風にまとめた体験談を寄せていただきました。
写真=小千谷市ボランティアセンター前で豚汁の準備をする三宅さん(写真提供=三宅隆介さん)
◆救援物資の配分やボランティアの受け入れなど生の声を川崎市政に活かしたい 川崎市議会議員 三宅隆介
10月23日の新潟県中越地震は、ひとつの村を一瞬にして消してしまうほどの大災害となりました。
多摩区選出の三宅隆介市議は、被災者の方々のために「何かお役に立ちたい」「現場を見たい」という思いから11月3日、4日被災地の小千谷市でボランティア活動を行いました。
三宅市議はまず、冷たいおにぎりやパン、弁当ではない“あたたかい食べ物”の提供が被災者の皆さんへの励ましになると考えました。そこで地元の皆さんの協力を得て、豚汁200食分を届けるために一路小千谷市へ。
小千谷市ボランティアセンターの指示で、きず団地、北沢集会所、ボランティアセンター本部前の3カ所で炊き出しを実施。あらかじめ6食分ずつにパックされた食材を鍋に入れ、どの避難所でも手際よく炊き出しを行いました。小学生は3杯もおかわりされるほど、あたたかい食べ物は好評だったようです。
ボランティア活動に携わった三宅市議は次のように語っています。「最大の避難所となった総合体育館の横には小千谷市ボランティアセンターがありました。しかし、受け入れ体制は十分とはいえません。議員であることを明かさず、一般ボランティアとして参加したので、被災者の方々からは、行政の対応への率直な声をお聴きすることができました。その話は救援物資の配分、動きの鈍さなど課題は一杯。これらの貴重な経験を今後の市政に活かしたいと思います。また、被災地の皆様には一日も早く普通の生活に戻れることをお祈り申し上げますとともに、皆様のご協力に心から感謝申し上げます。」
狛江市内で活動する音楽愛好家らが、新潟県中越地震で大きな被害を受けたふるさと友好都市川口町の被災者を支援しようと12月24日午後3時30分から小田急線狛江駅前のエコルマホールでクリスマス・チャリティー・コンサートを催す。
「一緒に頑張ろう 川口町」というこのコンサートは、音楽を通して国際ボランティア活動を行っている狛江市猪方のピアニスト渡辺文子さんらが「被災地の人々が少しでも気持ちのいいお正月を迎えるられるように」と企画。11月から市内の音楽団体などに呼びかけ出演者を募集、参加者らと実行委員会を作り準備を進めてきた。狛江市と同市音楽連盟が共済し、市教育委員会と社会福祉協議会が公演する。
コンサートは、2部構成で市内の学校や合唱団、吹奏楽、舞踊など19団体と1個人が出演する。内容は、吹奏楽、ピアノと歌、吹奏楽、懐メロ、ダンス、和太鼓などバラエティーに富んでおり、1部の終わりに「ふるさと」「Believe」の全員合唱もある。
出演団体は、狛江高校吹奏楽部、第二中学合唱部、合唱団の女性合唱団エオリアン・コール、コーラスガーデン、コール・レイネ有志、調布狛江合唱団、ともしび音楽隊、狛江フィルハーモニー有志、マンドリーノTAMA、狛江市民吹奏楽団金管五重奏、ミュージック・アーチ、キッズ・ダンス、BABY STAP、ミュージカルCoCo〜、赤い靴バレエサークル、G-Wing、和太鼓の豊鼓、きんたの会、跳鼓舞とメゾソプラノの金光和恵さん。
会場には、狛江市から借りた被災地の写真や新聞報道も展示される。また、募金箱も置き、義援金を集める。収益金はすべて狛江市を通じて川口町に贈られる。
入場は、一般1000円、学生500円。
問い合わせは電話090-1455-9053伊藤さん
神奈川災害ボランティアネットワークの呼びかけで11月12〜14日に新潟県中越地震の被災地に市民の立場としてボランティアに行った川崎市議会議員(高津区選出)の猪俣美恵さんから災害支援活動参加報告を寄せていただきました。
写真=万全の装備でボランティアに臨む猪俣さん(小千谷市のボランティアセンター、写真提供=猪俣さん)
◆支援の差や実態と合わないボランティアの手配 解決には行政の実態把握と情報収集が必要 川崎市議会議員 猪俣美恵
YMCAや社会福祉協議会が主力となって構成されている神奈川災害ボランティアネットワークの呼びかけで新潟に支援活動に行ってきました。
11月12日夜8時に横浜を出発したバスは、関越自動車道を新潟に向けて走り、11時過ぎには、宿泊場所である越後湯沢に到着しました。私の部屋は女性6人の相部屋でした。日ごろ介護の仕事をしている人や美大の生徒さんなどで平塚や海老名、相模原、東京の日之出町など様々な所から参加されておられました。
翌朝6時起床で7時半に宿舎を出発しました。小千谷市までは普段は30分で行くところを、全国各地からの支援車両で渋滞になり1時間かかってボランティアセンターに到着しました。センターは避難場所になっている総合体育館と隣接地にありました。大勢のボランティアと地元のニーズをマッチングさせる役割とシステムは、阪神淡路大震災の教訓も生かされていました。
私はすぐに5人のボランティアと民家の跡片付けに行きました。行く途中の資材調達所で必要な雑巾、バケツ、箒(ほうき)、ちりとり、ヘルメットなどを借りてから現地に向かいました。一緒に行ったボランティアは滋賀県から来た方々でした。行った先の民家は外から見ただけでは大丈夫に見えるのですが、家の中は足の踏み場も無く食器棚やたんすなどあらゆるものがひっくり返った状態でした。さらにそれらの上にガラスの破片と漆喰壁の土が覆っていました。小千谷市の家屋は被害調査が進んでいて状況に応じて赤、黄、緑の紙が家屋に貼られていました。私が行った家は黄色の紙が張られていました。基本的には赤紙の家にはボランティアは行かないことになっています。作業は最初土足で家の中に上がり大きいものを所定の場所に収め、次に掃き掃除拭き掃除と進めていきました。電気もガスも水道も通っていないので、貯めてある水や雨水を使っての作業でした。とてもハードな作業でしたが最後は素足で家の中を歩けるぐらいまでになりました。
次の仕事はセンターから車で30分ぐらい行った塩殿という地区の避難所になっているふれあいセンターに届いている各地からの支援物資を村民65世帯へ公平に分ける仕事でした。45リットルのポリ袋を65枚地べたに並べて、その中にカップラーメン・タオル・ジュース・お菓子・歯磨き粉など30種類ぐらいの物資を入れていきました。段ボール箱を抱えて中腰で配る作業は思った以上に過酷でした。ここは65世帯だけですが都市での物資の配布作業はとても考えられません。現に街中の避難所では、相変わらず支援物資が倉庫に山積みになっていました。支援物資の公平分配はたかが物資されど物資だと思います。結局大量に捨てることにも成りかねません。
その日は、こうした作業で終わり、またバスに乗って湯沢の民宿に戻りました。湯沢では、隣の大きなホテルがボランティアのために風呂を無料で提供してくださりとても感動しました。3カ月前の夏に水害復旧ボランティアで同じ新潟の中ノ島町に行ったときは、汚いままバスに乗って帰った経験もありそのことから思えば天国でした。民宿も2泊5食付で5000円という格安な上、わざわざ地元のコシヒカリの新米を出してくださるなど暖かい思いに触れました。
翌朝は昨日よりさらに早い出発でした。朝8時過ぎから作業にかかりました。その日の作業は総合体育館の中で避難生活を続けておられる方々のお世話と中の清掃その他ということで、一日体育館担当となりました。はじめは被災者の中で、介護が必要な方や乳児や病気の方たちが一階の会議室の方で生活されておられるので、その方々のニーズ御用聞きをして、布団の回りの拭き掃除や話し相手などさせてもらいました。
その中の一人から、結婚した昭和42年に宮前区の姉の家に結婚報告に行ったとき、11月の5日だと思うが溝口駅前のスギザキ時計店で姉が結婚指輪を買ってくれてそれ以後この指輪は37年はずしたことが無いといって指輪を見せてくださいました。意外なところで私の地元の溝口の話が出てきて驚きました。そして耐熱ペットボトルにお湯を入れてキルティングの袋に入れて布団の中に入れるなどいろいろな雑用をしました。
昼には、自衛隊が作った昼食のおかずやごはんを折り箱に詰めて配る作業をやり、その後体育館の消毒をしました。消毒といってもアルコールペーパーで大勢が触れる自動販売機のボタンや電気のスイッチやいすソファーなどを拭く作業でした。大勢の人が生活をしていると風邪などあっという間に感染して広がります。こんな作業も大変必要だと感じました。体育館の外では各地から来たボランティアによる演奏や料理のデモストストレーションなどのイベントが行われ、さらには自衛隊による風呂の提供なども行われていました。(風呂の湯はずーとオーバーフローしたままなので排湯はどこに流していたのか後になって気になりました。)
ただそうした励ましにもかかわらず、長引く避難生活者の顔は不安げであり、疲れきっていました。話を聞いていましたらまさに身ひとつで飛び出してきた人ばかりでした。中には、風呂に入っていたということで、まさに身ひとつで飛び出してこられた方もおられます。これから寒さも厳しくなってくるし、雪も積もってくるでしょう。正月も近づいて来るので、被災者は今以上に落ち込むのではないかと案じながら戻ってきました。
参加して見えてきた課題ですが、まず一点目はマスコミによる情報の偏りがそのまま支援活動の偏りになっていることです。マスコミが連日取り上げる地域は、支援物資も人手も届くのですが、すぐ隣で現状はもっと厳しい地域であっても、そこへはなかなか手が届いていないということです。そうした事態にならないためには、市民ボランティアだけに頼らず行政として実態把握と情報収集をするべきです。つぎにボランティアの仕事手配が実態としてのニーズにあっていなかったことです。頼む側は遠慮もあって少なめの依頼をするのですが、実際に行ってみるともっと人が必要だったり、もっと工具が必要だったりということが頻繁に起きていました。
最後に私は自分の住んでいるところに置き換えて考えてみました。川崎の人口規模を考えるとおそらく支援物資もただ待っていても手に入らないし、自分で情報を収集して自分で確保しなければならないと思います。できれば日ごろから親しくしている人たちが自分たちで場所を確保して知恵と力を出し合いながら励ましあって立ち直ることができれば良いのになあと思います。
余談ですが、地震はいつおきるかわかりませんが夜中の場合には、いつも枕元に着るものをおいておくのが良いのではないでしょうか。
◇川崎市としての課題
①市域の広さと人口規模を考えると各区の地域防災計画が必要
②災害時のボランティアの活動は今後不可欠であり日ごろからボランティア人材育成とその支援にもっと市は力を出すべきと考えます
③支援物資の公平な分配は捨て置けない課題だと思う
④地域の避難場所に指定されている施設の耐震及び空調設備の整備
新潟県中越地震の被災地川口町でボランティア活動を行った狛江市中和泉の飯島俊輔さん(27)が11月18日、狛江市立第七小学校を訪れ、被災地の様子を写真つきで説明、川口小学校からのメッセージを伝えた。
写真=朝の集会で川口町の様子を伝える飯島さん
授業で稲を育てている同小は、数年前から川口町立川口小学校と稲の生育や学校行事の情報をEメール交換、ふるさと交流15周年の2002年には寺本勇校長が、川口町を訪れ直接苗をもらって来た。
こうしたことから、同町に関心が高く、10月23日の地震直後に「自分たちでできることをしたい」と5、6年生全員が同小にお見舞いの手紙を書いた。手紙は、川口町に支援活動に行く派遣市職員が10月27日に持参、川口小学校に手渡された。
飯島さんは、体育館で行われた朝の全校集会に参加、現地で撮影した写真を使って「僕たちボランティアと元気に遊んでいた子が、たまたま起きた余震におびえ、足にしがみついて離れない」など地震で傷ついた子どもたちの心や狭いテント暮らしの様子などをわかりやすい説明、児童たちは真剣な表情で聴いていた、回飯島さんは、川口小学校からの「お手紙ありがとう。避難所暮らしなどで落ち着いた生活ができないので返事がまだ書けませんが、とても励まされました」とメッセージを披露した。
新潟県中越地震の震源地に近い川口町とふるさと友好都市を結び、防災協定を締結する狛江市は、地震直後からさまさまな支援活動を行っている。狛江市議会を代表して11月17日、契約公用車を利用して日帰り強行軍でお見舞いと視察に訪れた白井明議長に現地レポートを寄せていただきました。
写真上=歩道が1m近く重なっているホテル蒼丘近くの道路を視察する白井議長(写真提供、鈴木副議長)
◆“山が波のように揺れた” 新潟県中越地震川口町へのお見舞い
狛江市議会議長 白井明
関越トンネルを出て、新潟県に入ると関越自動車道を横断する一般道路の橋脚補修工事が行われており、地震の傷跡が極端に目に入るようになりました。
小出町のはずれの小出トンネルを過ぎると、関越自動車道の表層を補修した黒いアスファルトの路面が多くなり、隣の堀之内町に入ると道路は1車線に規制され、強い揺れで高速道路も歪んだのでしょうか、乗用車でも路面の凸凹がわかるような振動を感じました。
看板や電柱は傾いたまま、山の斜面では土砂が崩れ、その部分と建物の屋根を覆うブルーシートが目立つようになり、また関越自動車道から見えるお寺の墓石はほとんどが倒れ、無残な光景でした。
川口町に入り、越後川口のインターを出たサービスエリアに行くと、トイレは通常に使用できますが、店内は整備もされず閉店したままで店先の売店だけが「サンドイッチ」、「おむすび」とコーヒー、お茶などを販売するだけの営業でした。また駐車場の一角には自衛隊員用と思われる数張りのテントが設置されていました。
インターを出て役場へ向う通常の道路は通行止めになっており、大きく迂回し、魚野川、信濃川を渡ると道路脇の平坦な場所に自衛隊やカラフルなテントが設置され、また県外ナンバーの自動車、警察のパトロールカーなども見られ、震災の影響もあるのでしょうが、道路は渋滞していました。
役場の前庭には報道関係の自動車などが駐車し、また農林水産大臣や国土交通省(大臣政務官など)の視察があり混雑しておりましたが、一角にプレハブ建物内に設置された「川口町災害対策本部」の隣に「狛江市災害救援本部」があり、岩手県種市町、福島県桑折町の職員とともに支援活動に従事していました。庁舎は思っていたよりは被害も少ないようで3階の議会事務局で川口町議会議長、副議長から地震発生からの経過等について話を伺いました。 「幹線道路は、除雪できるよう簡易整備を雪が降る前に実施するが、崩壊しかけた建物はそのまま潰(つぶ)し、雪解け後にその処理をするようになる。」
「年々人口が減少ぎみだが、働く場の問題などから若者の流失が心配だ。」など今後の町政運営、町づくりについて話されました。
また、町議会議長は“山が波のように揺れた”と地震発生時の有様を表現されましたが、町内のほんの一部を視察しただけでもその言葉が実感として感じ取ることができました。
山間部の木沢地区へ行く途中、泉水小学校では仮設住宅の建設が始まっていましたが道路はゆがみ、山間部に入ると道路は至る所で谷の方向に崩れ、一部は道路がなくなってしまい山側を削った応急の道路で、雨の時は自動車の通行が危険に思える場所もありました。
また、町内の98%とほとんどの建物が被害に遭ったとのことですが、木沢地区へ行く途中の武道窪地域では、元の姿もわからないほど無残な建物の残骸もあり、それは倒れるというよりは上下の力により潰された感じがいたしました。木沢地区では、総代さん(地域の代表)を中心に話し合いですべて事が決まっていくとのことですが、統合により廃校となった旧木沢小学校と体育館が避難所となり、一応落ち着いた生活をされているようにも見えましたが、近づく雪の季節を前に今後の生活を心配しながら涙を流され、また「狛江からの支援に感謝している」と声を詰まらせていました。
狛江市民が川口町を訪ねたときに宿泊した「ホテル蒼丘(旧サンローラ川口)」も大きな被害を受け、近くの駐車場は大きな陥没や亀裂がそのままであり、また、町の体育館は基礎部分が1メートルぐらい“ずれ”て鉄筋がむき出しになり、グランドは凸凹で照明灯も倒れるなど、町の一部のみを視察しただけですが、自然の力、地震の恐ろしさを見せつけられた、そんな感じがいたしました。
幸いなことに私たちは震度7というような大きな“ゆれ”を経験しないでいられますが、川口町民が住み慣れた土地で生活再建ができるよう一日も早い復興を心より願っています。
写真中=土台が崩れ横に20数cmずれた狛江・川口の友好の碑(写真提供=鈴木副議長)
写真下=狛江市の少年野球チームも利用したホテル蒼丘近くの野球場は照明施設が倒れる(写真提供=鈴木副議長)
新潟県中越地震の震源地に近い川口町とふるさと友好都市を結び、防災協定を締結する狛江市は、地震直後からさまさまな支援活動を行っている。狛江市議会を代表して11月17日、契約公用車を利用して日帰り強行軍でお見舞いと視察に訪れた鈴木悦夫副議長に現地レポートを寄せていただきました。
写真上=1mほどの段差ができたホテル蒼丘近くの道路を視察中の鈴木副議長(写真提供=鈴木副議長)
◆川口町を訪問して
狛江市議会議員副議長 鈴木えつお
私は11月17日、白井議長とともに川口町を訪問、星野町長に狛江市議会の義援金50万円の目録を届けてきました。
星野町長に短時間お会いすることができ、星野町長は、「狛江のみなさんには、いち早く駆けつけていただき、ほんとうに感謝しています。みなさんに、よろしくお伝えください」とおっしゃっていました。
現地の様子ですが、延長10kmもある関越トンネルを抜けて川口町の隣の堀之内町に入ると、高速道路も補修した部分が多く、路面が波打っている状況で、周囲には倒れた墓石やブルーシートのかかった家がそこここに見えてきました。越後川口のインター出口のサービスエリアはまだ本格的に再開されておらず、サンドイッチやおにぎり、お菓子など程度しか置いてありませんでした。インターを降りて川口町役場に向かういつもの道は、通行止めで別の迂回路を通って役場に向かいました。途中東京土建狛江支部の車とすれ違い、土建の人たちも救援に来ているのだなと思いました。
役場の前は、自衛隊や報道陣、各自治体の支援の車でいっぱいでした。その一角にプレハブの川口町災害対策本部があり、その隣に狛江市の災害対策本部のテントがありました。狛江市のテントでは、東北地方の桑折町、種市町、三春町の職員も一緒に活動していました。
案内されて町役場の中に入りましたが、地震直後のテレビの映像とは違って、それなりに整理整頓され他県からの応援の職員も含め業務が行われていました。そこで川口町の議長・副議長にお会いできお話を伺いましたが、議長の話では、「最初ドーンと突き上げるような揺れがきて、これは自動車が家にぶつかったかなと思った」とのことで、その後の大きな横揺れで蛍光灯がゆれて天井にぶつかったとのことです。
また田んぼは2/3が水路が寸断され耕作できない状況になっており、水道・電気はかなり復旧したが、ガスはまだ使えない、家が全壊・半壊した方々約300世帯から仮設住宅への申し込みがあり、12月はじめには完成予定とのことでした。議長さんは、「11月末ごろから雪が降り出し、平年で1〜2m、ひどいときには3mも積もることがあるのでこれからが大変」「これまでも若い人がなかなか町に定住せず、10年で500人減っているが、今度の地震でまた町を離れる人が多くなるのではと心配している」と語っていました。
次に地震直後一時孤立したという山間の木沢地区の避難場所を訪問しました。
途中の道路の両側には、全壊した家が数多く見られました。また狛江市の救援隊が車を降りて天秤棒で救援物資担いで運んだという、崩れた道路のそばを通りましたが、アスファルトの舗装がポテトチップのようにちぎれて谷側に20〜30mずれ落ちていました。
廃校になったという学校が避難場所になっていて、その地区の代表というおじいちゃんは「この年になってこんな目にあうなんて」と涙ぐんでいました。奥さんの話では、体育館では寒いので昨日から教室に入れるようになり少し暖かくなったとのことで、「今はお医者さんがきてくれるけど、これから雪が降ってこれなくなったら困る」「自宅は入り口が崩れてしまって入れない。春になったら入り口を建て直して、奥も修理して家に戻ろうと計画している」とのことでした。また別の男性の方は山の方を見て、「向こうの山にこの間雪が降ったが、ここももうすぐ雪が降る。仮設住宅を早くたててほしい」と語っていました。
最後に、狛江市民もよく使わせてもらう宿泊施設「ホテル蒼丘(旧サンローラ川口)」の近くを見て回りました。ホテルは立ち入り禁止となっており、その近くに地震で断層が動いたと思われる場所がたくさんありました。
道路の一部は1m位の段差ができ、狛江の少年野球チームも使わせてもらったという野球場のネットや照明施設がなぎ倒されていました。近くに住む松岡さんという絵本画家の方が家の中を見せてくれましたが、松岡さんが書いた絵の絵本や家財道具などが散乱し足の踏み場もない状況でした。奥さんの話では、「地震発生のときは夕食時で台所にいましたが、大きな揺れで冷蔵庫が動いて一時40cm四方くらいの所にはさまれてしまいました。電気が消えて真っ暗な中、外に出ようとしたけれど台所のドアは開かず、手探りで玄関まで行ってようやく外に出ました」とのことでした。外を見ると土台のコンクリートに亀裂が入り10cmくらいずれていました。
現地の状況はものすごい揺れがあったことを物語っています。
帰る道々、狛江でこれだけの地震があったらどうなるか、ということを考えました。
川口町では幸いにも火事が出ませんでしたが、狛江では家が密集しており、もし火事が出たら燃え広がって大きな被害が出ると思います。よく地震の時は、まずテーブルの下などに身を隠して安全を確保すること、次に急いで火を消すことといいますが、それを本当に実感しました。
川口町の被災者の生活が早く再建できるよう願うとともに、今後狛江市として、この震災から何を教訓として導き出し、行政と住民はどういう対策をとるべきか、考えていきたいと思います。
写真中=アスファルトが谷側に落ちた木沢地区への道路(写真提供、鈴木副議長)
写真下=建設中の仮設住宅(写真提供、鈴木副議長)
多摩区民祭などで会場で募金活動を行っていた川崎稲田ライオンズクラブ(佐藤光一会長)が、新潟中越地震の被災地にこのほど16万6856円贈った。
写真=多摩区民祭で街頭募金をする川崎稲田ライオンズクラブの会員
同会は、11月2日から義援金活動を行い、この日と16日の例会で会員から37244円、11月7日の多摩区民祭会場の街道募金で11万3765円を集めた。この合計額の15万1009円は被災者に役立ててもらうため中越地区のライオンズクラブに送った。
また、16日に向ケ丘遊園駅南口で行った街頭募金1万5867円は日本赤十字社に送金した。
結成37年の歴史を持つ同会は、介助犬の普及に力を入れており、各地でデモンストレーションを行うなどの社会奉仕活動を行っている。
新潟県中越地震で、大きな被害を受け、全村民が避難することになった山古志村。
山古志村復興支援のため、川崎市内では11月27日と28日に山古志村が舞台となった映画「掘るまいか 手掘り中山隧道の記録」上映会が開かれる。
この記録映画の監督・橋本信一さんから、11月6、7日に被災地山古志村を訪ねた時の様子を書いた原稿を寄せていきただました。
写真=映画を撮影中のスタッフ(右から3人目の白いTシャツが橋本信一監督)
◆生き続けている強靭な山古志スピリット
「掘るまいか 手掘り中山隧道の記録」監督 橋本信一
2004年10月23日、新潟県中越地方を襲った大地震によって長岡、小千谷、川口など中越地域は甚大な被害を受けた。その中で全村避難を強いられ、壊滅的な被害を受けた村として全国にその名が知れ渡った村がある。山古志村である。
家屋の倒壊、ライフラインの寸断、ヘリコプターで撮影された生々しい惨状は日本中に衝撃と哀しみをもたらした。
美しい棚田が広がり、日本の原風景のような村がこのような形になってしまったことを僕は未だに信じられないでいる。悪い夢を見ているのではないかという感覚がどうしても抜けないのだ。
地震のあと、すぐにでも飛んでいきたかったのだが、連絡が取れないことや、道路が封鎖されていたこともあり、現地に行けたのは地震から2週間ほど経った後のことだった。
やっとつながった関越自動車道の長岡ICを降り、山古志村の方々の避難先になっている長岡市内の高校に向かった。避難所に行く前に立ち寄った村の対策本部で旧知の役場職員に会い、思わず駆け寄り、手を取り合った。役場職員の方の話では、とにかく凄い地震だったという。爆弾が落ちたかと思ったそうだ。下から来る縦揺れの後、凄い横揺れが来て立っていられなかったらしい。瞬時に電気が消え、電話も通じなくなった。今、何が起こったのかわからない状態の中で、みな外に出て車のラジオを聞いたという。しかし、地震が起こったことは理解できたが、山古志村の情報は報道でも伝えられなかった。
村の方々は情報が入ってこない中、暗闇の中でひたすら耐えた。
数日後、自衛隊のヘリが来て、やっと状況を理解できたそうである。役場の職員も大変だったようだ。全村避難を村長が決定したのち、2100名の全村民の避難先の確保に忙殺された。しかも、携帯や電話が使えないので、役場職員が自らの足で駆けずり回り、それこそ寝ないで奔走し、死ぬような思いで関係諸機関に連絡を取り、確保したという。
ある役場職員は4日間一睡もできなかったそうだ。
対策本部を出て、避難先である長岡高校に向かう。長岡高校には山古志村の多くの集落が集落単位で避難、ふとんひとつが自分のスペースという窮屈な状態での避難所生活を送っていた。映画の舞台になった小松倉集落の方に会い、思わず抱き合った。僕等映画スタッフにとっては、小松倉の方々は親戚や家族と一緒である。ただ、手を握り合い、みなさんの無事を喜んだ。
地震当日の話やこれまでの話を小松倉の方々は、一生懸命話してくれた。家族とバラバラで不安だったこと、山の地形が変わってしまうほどの激しい土砂の崩落のこと、そして、今後の生活の不安・・・。
隣の集落の方のこんな声も聞かれた。「これだけの甚大な災害から村や県単位で復興するのは難しい。マスコミもふくめて何か表現の手段を持っている人間たちが、この大災害を伝えつづけること、決して忘れないように長く国民に伝えつづけてほしいんだ・・・。」
一方、村の方々のこんな言葉もあった。
「これは天災であり仕方ない。でも俺たちは必ず復活するし、村も必ず復興させてみせる。
神様が与えた試練なのかもしれん。まだまだ楽隠居はさせないとね。」
僕はそういって苦笑する村人を前にし、返す言葉に窮した。
またこの村人はこうも言った。
「道が修復できないのなら新しい道を山を削って作ればいい。集落も復興も新しい区割りを考えるくらいの大胆さでやるしかない。ニュー山古志村を作るくらいの気持ちにならなきゃできないよ。」
この発想が出てくる強さはどこからくるものなのか?どんなに苦しくても前を向いて進もうとする山古志の人の強靭な精神力に僕は感動した。
でも、確かな地域コミュニティが生きている山古志村ならどんな困難も克服していけるのではとも思える。現に体育館でのプライバシーを確保する衝立は逆効果だからいらない、という村人の意見がそれを証明している。お互いをよく知った者たちの顔が見えるからこそ安心できるのだという。この村には様々な苦境をともに乗り越えてきた確かな村落共同体の絆が生き続けていると実感した。
5年後、この村がどのような奇跡の復興を成し遂げているか。僕は映画「掘るまいか」の制作を通じて感じた不屈の山古志スピリットが今も生き続けていると信じている。
写真=映画の舞台となった山古志村小松倉集落の地震前の風景(写真下)
新潟県中越地震で、大きな被害を受け、全村民が避難することになった山古志村。
川崎市内では11月27日と28日に山古志村復興支援のため、山古志村が舞台となった映画「掘るまいか 手掘り中山隧道の記録」上映会が開かれる。
この記録映画を制作した日本映画学校顧問の武重邦夫さんから、11月6、7日に被災地山古志村を訪ねた時の様子を書いた原稿を寄せていただきました。
写真=長岡で、映画に出演した山古志村の人に再開したスタッフ(後列左から2人目が武重邦夫さん、7人目が橋本信一監督)
◆山古志の人たちは頑張っています!
「掘るまいか 手掘り中山隧道の記録」制作 武重邦夫
先週の6、7日の両日、映画「掘るまいか」のスタッフ7名と長岡へ行ってまいりました。
まずは長岡市に設けられた山古志村対策本部{臨時村役場}へ直行、長島村長や役場スタッフの方々とお会いしました。 皆さん、とても明るく元気に振舞っておられ、これが、あの大災害に見舞われた人たちか? と、信じがたい思いがいたしました。
こうした雰囲気は高校の体育館に避難している村民のみなさんも同様で、われわれ映画のスタッフの訪問を心から喜んでくださいました。
最初は、今、我々が駆けつけたところで足手まといになるだけではないかと 心配していたのですが、若いスタッフとおばさんたちが抱き合って再会をぶ光景を見て安堵しました。
山古志村に足掛け5年通い、共に映画作りに汗を流した友情の時間が、双方にとって掛け替えの無い貴重なものだったと本当に嬉しく感じました。
先行きが見えない現実の重さを思うとやるせなくなりますが、お会いした村の人々の口からは一言たりと愚痴を聞きませんでした。
なんて凄い人たちだと、改めて尊敬の念を抱いた次第です。
翌日、我々は報道の一員として広神村から撮影場所の小松倉に入れていただきました。
小松倉は最も高地に在るので山古志の中では被害が少ない方ですが、それでも半分以上の家屋は傾き、道路や田んぼ、錦鯉の養魚池はいたるところが破壊されています。
特に道路のコンクリートが大きく口を開いた亀裂は恐ろしい光景です。
「一瞬、爆弾が破裂したと思った」と言う村の人たちの恐怖が、はじめて実感出来た気がしました。
帰途、病院に入院された方々を見舞い、スタッフ達は体育館へお別れの挨拶にいきました。
私は村長に会うために対策本部に戻ったのですが、時間待ちで喫煙室に行ったところ凄い光景を目撃することになりました。
私が教育長と話していたところへ村会議員のSさんが来られ、教育長にこう云われたのです。
「先生、お願いがあります。今回の地震災害の事をしっかりと子供達に受け止めさせてください。辛い現実ですが、子供達が目を背けないように、しっかり受け止めさせてください。 お願いします」
私は胸が熱くなり思わずSさん見ました。Sさんは65歳位のがっちりした身体つきの村会議員であり、農民です。
私はこれまでに、日本の政治家からこうした言葉を、哲学を一度として聞いたことがありません。
と同時に私は、Sさんたち山古志の人たちは、先人からそうした教育を受けてきたのだと納得しました。
そうなんだ。山古志村の人たちは、手掘りで16年もかけて1000メートルのトンネルを掘ってきた人なんだ。 並みの人たちではないのだ。 我々が撮影した「掘るまいか」は過去の話ではなく、現在の話なんだと。
ちなみに、私が滞在中に課長たちと交わしたのは、総て新しい村のデザインについての話しでした。
新潟県中越地震の被災者に気分転換をと、川崎市多摩区菅と長沢で美容室「フォルトゥーナ」を経営する美容師菅原司郎さん(38)が、従業員や美容師仲間と11月23日に小千谷市や川口町で美容ボランティアを行う。前日22日の夜、チャーターしたバスで市内を出発、当日はグループに分かれ被災地を訪問、カットや顔そりのほか持参する七五三の衣裳の着付けなども行う予定で、一緒に活動する美容師や理容師も募集している。
写真=小千谷市の小学校体育館でボランティアする菅原さん(手前)
菅原さんは、川崎市内の美容師ボランティア団体「PRIC」の代表。同会は、美容師自身の技術提供で社会貢献をと、高津区溝口の生活文化会館「てくのかわさき」などで毎年チャリティーカットやフリーマーケットなどを催し、その収益を社会福祉団体に寄付している。
菅原さんは、新潟の被災地でこのチャリティーカットの経験を生かそうと、自身の店で働く美容師や同会会員の高津区の美容室経営者とともに11月2日にマイカーで小千谷市内に出かけ、カットなどを行った。この時は現地の美容室やボランティアセンターの協力を取り付けるのが大変だったが、その後定休日に3回出かけ、現地の協力者も増え、交流も生まれたという。
こうしたことから、勤労感謝の日に予定していたことしのチャリティーカットの会場を変更、被災地でボランティアを行おうと会員や一般の美容師に呼びかけた。趣旨に賛同した貸衣装屋さんが七五三の衣裳も貸し出す。
菅原さんは「災害被災地のボランティア経験は初めてだったが、一時でもくつろいだ気分を味わってもらいたいと思って出かけた。美容の仕事は、相手を思いやる気持ちがないとできないので、いい勉強をさせてもらっている。バスにまだ余裕があるので、若い人にぜひ参加してもらいたい」と話している。
参加希望者は、ハサミなど自分の道具を持参し、22日午後10時までに多摩区菅のフォルトゥーナ前に集合する。申し込み・問い合わせは電話080-5539-8426菅原さん。
11月14日に開かれた狛江市民まつりで行われた、新潟県中越地震被災地川口町の義援金に、92万9932円のお金が寄せられた。
この義援金は、まつりの会場第一小学校の川口町が出店する予定だったテント2張り分のブース前で、祭りの実行委員や狛江市職員が行ったもの。テントには、市職員が撮影した被災地の様子の写真30点が張り出されたほか、市の支援活動の新聞も置かれ、会場に来た市民が熱心に見ていた。
同市に寄せらた義援金は、まつりの分や駅頭などの街頭募金を合わせ11月19日現在で、1251万9000円となった。義援金の担当によると、市内で街頭募金が盛んに行われたほか商店や会社などに募金箱が置かれていることもあり、10月25日の銀行口座開設当初は、市内より全国方から振り込みが多く、なかには神戸市から個人で100万円振り込んできた人もおり、被災地への関心が高く感謝していると話している。
新潟県中越地震の被災地・川口町の復興支援に派遣された狛江市職員が、11月6日に川口町役場前の駐車場で、七五三を迎える子どもに千歳飴と記念写真の撮影を行った。(写真)
ふるさと友好都市の子どもに明るい笑顔と七五三の思い出をプレゼントしようと同市職員の発案で実施したもの。会場には、災害支援関連情報を掲載する日刊の情報誌で知った33人の子どもが保護者とともに参加した。会場は、この話を聞きつけた報道陣も取材に訪れ、参加した子の数より多いほどだったという。
5日から9日までの第2次第4陣支援隊に参加した内山恵市社会教育部長によると、会場に来た子どもたちは、ほとんどがトレーナーなどの普段着だったが、一人だけネクタイをした晴れ着の男の子もいた。それでも記念の写真撮影とあって子どもたちは新しい服を着て、付き添いの保護者も家の片づけや避難所暮らしの時の服からこざっぱりとした服装に着替えて写真に収まった。ただ、いまでも余震が続くためか、足下はいつでも安全な場所に逃げられるように長靴だったという。
町には七五三を迎える子どもが約80人おり、全員にプレゼントするために用意した千年飴は、各集落ごとの避難所などに運ぶ物資とともに送られた。
新潟県中越地震で全村民避難という大きな被害を受けた新潟県古志郡山古志村の復興支援をと、同村を舞台としたドキュメンタリー映画「掘るまいか 手堀り中山隧道(なかやまずいどう)の記録」(16ミリ、83分)の制作や上映に係わった川崎市民らが、11月27日と28日に川崎市内の2カ所で映画の緊急上映会を開催する。
写真=映画「掘るまいか 手堀り中山隧道の記録」より
上映は27日が小田急線新百合ヶ丘駅前の日本映画学校、28日が中原区の川崎市民ミュージアムで、いずれも時間は午後1時30分から。上映はすべてボランティアで運営し、参加協力費1000円と会場で集める義援金をすべて山古志村に寄付する。
KAWASAKIしんゆり映画祭実行委員会が主催、市民ミュージアムが共催、日本映画学校・掘るまいか上映推進委員会が協力する。
トンネルがある山古志村小松倉は新潟県内でも有数の豪雪地帯で、かつて冬は7、8メートルの雪が積もって陸の孤島となり、商店や医療機関もなく、病人が出ると村人は険しい峠道を越えて隣村まで歩き、吹雪の時は死者も出るほどだった。こうした状況を改善しようと、1933年から行政の援助もないまま農閑期に集落の農民らが交替でトンネルを掘り始めた。途中意見が対立して集落が二分したこともあり、戦争中には一時中断、戦後の1947年に集落が一致団結して掘り進み、1949年に完成した。完成後、約50年間村人の生活を支え、車が通行できる新トンネルが完成した1988年に閉鎖された。
村人たちは、使われなくなったトンネルを村の文化財として記録を残そうと全国各地から隧道文化基金を作り、制作を日本映画学校に依頼した。同校顧問で映画祭初代実行委員長の武重邦夫さんが制作を担当、映画祭運営委員で日本映画学校講師の橋本信一さんが監督し、同校卒業生や映画祭スタッフがさまざまな形で協力・参加し、5年がかりで2003年2月に完成させた。
映画は「昭和の青の洞門」ともいわれる全長922mの日本最長の手掘りトンネル「中山隧道」が完成するまでを、当時の関係者のインタビューに加え、トンネル掘りの様子や話し合いの様子などをドラマで再現、昭和の山村の記録としての価値も高い。平成15年度文化庁文化記録映画優秀賞、新潟日報文化賞などを受賞した。
ドキュメンタリー特集をした昨年の映画祭最終日にこの映画を上映。当日は長島忠美村長をはじめ映画に登場した小川八一郎さんがゲストとして参加し、他の村民も新米や特産品を持って訪れた。
こうしたことから、同祭実行委では、山古志村の被災に心を痛め、一日も早い復興のために「がんばれ!山古志新潟県中越地震災害復興支援上映会」を企画、参加者に義援金の協力を呼びかけることにした。
当日は、映画制作スタッフによる山古志村の現況報告とデジタルハードディスクによる映画を上映する。28日は市民ミュージアムガイダンスルームで、子ども向きに短縮された「ボクの村のトンネル」(40分)の無料上映も午後2時と3時に行われる。
義援金の振込先は 掘るまいか山古志救援基金 郵便振替口座00170-9-482143。
問い合わせは電話044(953)7652KAWASAKIしんゆり映画祭事務局。
明るい社会づくり運動川崎西協議会(斉藤利子会長)が、新潟県中越地震被災者のために11月7日の多摩区民祭会場入り口で街頭募金を行なった。会場で集めた11万3835円と、同日小田急線新百合ヶ丘駅で行った街頭募金27万8001円は、読売愛と光の事業団「新潟中越自身救援募金」に送金した。
同会は、多摩区民祭にバザー出店申請をしていたが、今回の地震で10月30日に区内の駅頭で行った募金への感心が高かったことから、多くの人が集まる祭会場でも被災者の支援をしようと開催直前に同祭実行委員会に街頭募金を申し出た。出店会場付近は買い物でごったがえすため、会員が交替で入り口付近に立ち、市民に呼びかけたものだ。新潟中越地震のために同会が行った募金活動は4カ所で、30日の小田急線向ヶ丘遊園駅と生田駅の46万7515円と合わせ、85万9351円となった。斉藤会長は「たくさんの人に協力してもらい、多額の募金が集まった。すでにいろいろな団体が募金活動を行っているので、街頭募金はこれで終わりにして、それぞれが支援できることを行う」と話している。
明るい社会づくり運動は、家庭教育や交通遺児の救済募金、地域の清掃活動などのボランティア活動を全国的に展開する団体で、川崎西協議会は多摩区・麻生区の200世帯が所属している。
新潟県中越地震で被害を受けた川口町へ義援金を送ろうと狛江市の供養塚公園(駒井町1-3-3)で、11月7日午前10時から午後1時までフリーマーケットが開かれる。
このフリマは、阪神大震災救援を目的に1995年春に同市岩戸南の清水信之さんらの呼びかけがきっかけで始まり、出店者が売り上げの一部を寄付、会場でも義援金を集めた。その後、実行委員を募って毎年春と秋に同所で開催、震災被害が落ち着いてからは売り上げの一部を福祉団体に寄付している。
今回から主催団体が「NPO法人ハンディキャブこまえ・友の会」に変わり、収益は同会の運営に回される予定だったが、ふるさと友好都市・川口町の被災者を支援しようと義援金を集めることにした。
会場では、フリマ35店のほか、焼そば、飲み物などの屋台村が出店、主催者も餅つきをして義援金を募る。
新潟県中越地震の震源地に近い川口町とふるさと友好都市を結び、防災協定を締結する狛江市は、地震直後からさまさまな支援活動を行っている。再開した川口町役場に11月2日、お見舞いと視察に訪れた狛江市長の矢野裕さんに現地レポートを寄せていただきました。
写真=被災地を視察する矢野さん(右から2番目)
11月2日朝7時に出て、新潟県川口町へお見舞いと激励に行ってきました。翌日公務が入っているため日帰りの強行軍となりましたが、被害の大きさと災害対策の困難さを目の当たりにしてきました。
お昼前には川口町内に入り、すぐに市民から寄せられた義援金の一部500万円、職員の拠出分100万円を、町役場で星野町長に手渡しました。町長は「被災直後からの、狛江の皆さんのご支援は本当にありがたい。心から感謝しています」とお話し下さいました。これまで役場の災害対策本部はテントの中でしたが、1日から小さなプレハブが建ち、ようやくそこで指揮をとれるようになりました。それでもひっきりなしに見舞いや激励で訪れる方々が続き、食事もままならない様子で、内山助役も「被災直後から今まで、役場から離れたのは2回だけ」というほど、日々の対応に追われています。
1日からの業務再開のため、狛江や他の自治体職員が前日まで掃除と整理でがんばった役場内を拝見し、また支援に入っている各自治体、地元消防団等への挨拶後、被災地をまわりました。魚野川河川敷で避難生活をしている西川口では、今では自衛隊のテントが立ち並び、風呂も提供されていますが、それ以前に狛江市の第1次隊が仮設トイレを設置し、第2次支援隊がテントとブルーシートで居場所づくりしたことに大変感謝いただいており、私が寄った時は地区の方々を集め挨拶をさせて下さいました。
次に寄った木沢地区でも挨拶の機会をいただきましたが、ここは山あいにあり、道路が崩落したり土砂で埋まったりしましたが、自力で道を開いたそうです。被災住民の皆さんは、いずれも地区長のもと団結し、不安と疲労の毎日の中、お互い助け合い支えあっていることがよく感じられました。日頃の地域の絆があったからこそ、ここまでがんばることが出来ているのでしょう。
次に、川口町の町営ホテルや温泉など保養施設を見ましたが、建物などにも被害が出ており、地面は至るところ亀裂が走っていました。川口町はこの一帯にスポーツ・レクリエーション施設を取り込み、町外からの集客を図っていた施設ですので、一日も早く再開できることを心から祈っています。
支援物資は充分で、倉庫などに山積みでした。各地域にも充分行き渡っているようでした。したがって現地で求めていないものは搬送しても保管に困りますし、要るものは刻々と変わるので、これから物資を送る方は事前に現地へ必要性を確認して下さい。被災者は、地区ごとに連帯し助け合ってがんばっていますが、疲労も見え、風邪も流行り出しています。被災者の精神的なケアとともに、もう1か月もすると雪が積もり出すので、いま一番必要なのは仮設住宅です。これは一市町村レベルでは到底対応できないので、国や県が急ぎ設置するよう願っています。また余震が収まれば家に帰れる人にとっては、後片付けが大仕事です。高齢世帯が多くを占めているので、ここにも人出を必要としています。
狛江市ではこれからの支援策を検討していますが、支援に入った自治体の受付・調整役、並びに搬送部隊を引き続き受け持っていきます。私の感じでは、後片付けのお手伝いと、もし体育館など避難所で冬を越す方が多ければ、避難所運営やそこでの生活環境の改善なども、今後必要になると思います。大きな余震が収まるようなら、市民の皆さんにも協力をお願いすることになるかも知れません。
これが川口で見たこと、感じたことですが、さらにこの10日間の支援活動を振り返ってみますと、1番強く印象にあるのは、川口町との17年にものぼる交流が、狛江にしっかりと根づいていたことです。被災翌日、直ちに川口へ行って欲しいとの要請を受けた職員は、全員二つ返事で応じてくれました。今でも支援活動への参加を希望する職員は大勢います。市消防団もいち早く駆けつけ、もっとも困難な第1次隊に参加してくれました。残った市職員は、部ごとに行動日を決め、関係する市民団体と一緒に市内関連3駅で災害義援金を呼びかけました。市民も、職員も、我がことのように川口町への支援活動に立ち上がり、一所懸命行動している姿は、交流の深さを物語っているように感じました。
また川口町への支援は、わが狛江にとっても、たくさんの教訓をいただきました。もし大地震が狛江で起こったとしたら、従来の防災計画では何が足りないのか見えてきた部分もあります。被災現場を実際に見た60人ほどの派遣市職員、10人の市消防団員、そして派遣準備にあたった職員たちが、様ざまな問題意識を共有したことも、狛江のいざという時、大きな力になっていくと確信しています。
川口町の皆さんには、大変なご苦労が続いていますが、負けずにがんばっていただきたいと願っています。狛江市と狛江市民は、川口町が復興し、さらにすばらしい町として前進することを心から期待しておりますし、そのためにこれからも一緒に歩んでいきます。
地震被災地の子ども達に七五三の思い出をと、狛江市が新潟県川口町の子どもに記念写真と千歳あめをプレゼントする。
地震被害の支援活動のため川口町に派遣された同市職員が、11月6日午前10時から川口町役場前の駐車場で、七五三を迎える約80人の子ども一人ひとりに千歳あめが5本入った袋を手渡し、ポラロイド写真を撮影する。プレゼントは現地で支援活動を行った職員のアイデアによるもので、千歳飴は(株)榮太郎創本舗が提供、5日に派遣する第2次第4陣支援隊が持参する。
同市は、ふるさと友好都市・川口町を襲った新潟県中越地震の支援活動のため10月24日からさまざまな支援活動を行っており、現在は、8人の職員が4泊5日
で交替する体制で、現地の公共施設や小中学校の片づけ、避難所への物資の運搬などを行っている。
多くの町民が避難生活している川口町には、全国各地の自治体などから派遣された職員が災害復旧のための活動を行っており、11月1日に町役場の機能が復帰した。七五三プレゼントの情報は、練馬区が印刷機を持ち込み派遣した職員などが11月1日から日刊で発行する災害関連の情報誌に掲載、町民に知らせる。
10月23日午後5時56分に起きた新潟県中越地震で、翌24日に現地視察をした衆議院議員(神奈川9区選出)の笠浩史さんに現地レポートと写真を寄せていただきました。
写真=被災地を視察する笠さん(左)
●被災地の写真を見る
私は23日に柏崎刈羽原発を視察するため、鳩山元代表らとともに新潟入りしていました。
地震発生を受けて、急遽、民主党現地調査団として翌日24日早朝より小千谷市に向かい、被災地の視察、被災者のお見舞いをしてきました。
被害の状況は報道で伝えられている以上にひどく、地震のすさまじさを目の当たりにしました。
山古志村に向かう道路はがけ崩れで遮断され、多くの道路が、陥没し、亀裂が走っていました。
孤立した村も多く、被害の状況すら正確には把握できない状況でした。
10年前の阪神大震災の教訓もあり、今回、自衛隊も早々に被災地に入っていましたが、隊員の方から孤立した村の被災状況について、「今のところ道路が遮断され、車で入ることができないので、ヘリコプターでの視察しかできません。このため、救援どころか、どのくらいの被害が出ているかすらわからない」と救援活動が難航している状況について説明を受けました。
電気、ガス、水道のライフラインの復旧のめども立たず、多くの方が避難所や路上テントで深刻な疲れきった表情を浮かべています。
被災者の方々からは「おにぎりが食べたい」など、食糧支援を求める声が多く、女性の方からは「仮設トイレを何とかして欲しい」という悲痛な訴えを数多く頂きました。また、子供さんから「いつから学校にいけるようになりますか?」という質問もありました。こうした状況を随時、党本部の対策本部に伝え、民主党として一刻も早く対応するよう要請しました。
また、仲間の議員らと協力して、NPOなどのボランテイアへの支援要請や近隣の県からの食糧調達をお願いしました。
我々の調査報告を受けて、25日には、岡田代表も現地入りするなど、民主党としても一丸となって支援に努力しております。
こうした問題は、政府と与野党がしっかり協力して、迅速に対応していくことが大事です。
今後も、中越地震で被災された方々、台風や豪雨による被害を受けたみなさんへの支援に全力をあげていきたいと思います。
矢野裕狛江市長が11月2日、新潟県中越地震で大きな被害を受けたふるさと友好都市・川口町を見舞い、星野和久川口町長に義援金の目録などを渡した。
写真=義援金の目録を渡す矢野市長(右)
矢野市長は午前7時に本橋企画財政部長、松原市民協働課長とともに公用車で狛江市を出発、1日から再開した町役場に星野川口町長を訪れ、見舞いの言葉を伝え、狛江駅の街頭募金や職員などから寄せられた義援金の一部600万円を手渡した。星野町長はお礼を述べ、死者4人、住宅など約640棟が全半壊し、5783人の町民の大部分が避難生活を送っている被害状況や支援体制などについて話た。
午後には、狛江市が提供したテントなどで避難生活をしている魚野川河川敷や、狛江市地域センター運営協議会などの事業で親睦のある被害が大きかった木沢地区などを回り見舞いと激励の言葉をかけた。また、町の公共施設などの被害状況を視察、午後8時に狛江市に戻った
10月23日夕方発生した新潟県中越地震で大きな被害を受け、陸の孤島状態となった川口町へ外部からまっ先に救援にかけつけたのは狛江市の職員たち。24日には3陣に分かれて21人が、自衛隊が到着する前日にトラックに救援物資を積んで救援にかけつけた。
当時の救援隊の様子や被災地の状況などを、松原市民協働課長らに聞いた。
(写真=25日、孤立した集落へトイレを運ぶ狛江市の職員たち。道が壊れているところでは、約50キロあるトイレをかついで運んだ。写真提供、狛江市)
狛江市は、1987年に川口町と「ふるさと友好都市」の提携を、翌1988年には相互援助を目的として「防災協定」を締結している。いかだレースや市民祭りをはじめ狛江市のさまざまな行事にも川口町から参加するなど、17年余りにわたって官民をあげて交流を続けてきた。
ふるさと交流を担当する市民協働課長らは、地震発生の約2時間後に登庁、午後7時15分から情報収集を始めた。しかし、町役場へは電話が通じない。知り合いの同町職員などに次々と電話を入れるが、どこも音信不通。ようやく企画商工課長に連絡が取れたものの、小千谷に出かけて川口町へ帰る途中で、がけ崩れで足止めになっているという。マスコミからの情報もほとんどないため、川口の様子は全くわからず、心配はつのるばかり。結局、この日は午後9時30分過ぎに全員、帰ることにした。
翌24日、午前8時30分にようやく川口町災害対策本部と連絡が取れ、ただちに「川口町災害支援対策本部」を設置、矢野市長ら幹部職員と消防団が協議、必要資材をすべて提供する方針を決めた。
現地の状況を確認するため先発隊が午後12時20分に出発。メンバーは同町との交流を担当し、町をよく知る松原市民協働課長と西田総務防災課長、消防団団長ら5人。消防団の本部車と毛布、テント3張り(うち1張りは支援隊用)を積んだ2tトラックで、川口をめざす。
既に関越自動車道路は交通規制が始まり、一般車は月夜野インターで下ろされたが、一行は緊急車両のため、川口インター手前の越後湯沢で高速を下りた。国道17号で川口町をめざすが、川口町を入ってすぐのところにある雪よけの「和奈津立橋」が崩落して進めない。小千谷市からのルートに変更したが通行不能で、ようやく隣接の堀之内町から川口へ入った。
どの道もいたるところで土砂崩れや道路のひび割れ、陥没が相次ぎ、車ごと陥没している道もあり、地震の強さと被害の大きさを見せつける。不安はつのるが、とにかく行けるところまで行こうと、前進を決める。途中、土砂崩れで木が垂れ下がっている場所では、車の屋根に登って木を切り倒し、なんとか後続のルートを作る。
道路が寸断しておりルートがわからないため、市役所へ連絡を入れ、町の人に道案内を頼んでくれるよう要請。道案内役の川口町職員と合流し、4時間後の午後4時30分過ぎ、町役場へたどり着いた。
陸の孤島と化した同町に入った支援の車は初めてで、出迎えた町の職員らは感激したという。
現地は電気、ガス、水道のライフラインが壊滅し、食料や飲み水もない状態。役場へ来られない職員も多い。
救援隊はこうした被災状況などを狛江に連絡。町からの要望を聞いて、追加の支援物資などを伝える。
先発隊から3時間後の午後3時20分に第2陣8人が公用車とトラック、消防団ポンプ車に分乗し狛江を出発。
トラックには仮設トイレ20基、毛布320枚、使い捨てカイロ2852個、2リットル入りの飲料水102本、カップラーメン400個、トイレットペーパー200ロールなどを積みこんだ。川口町からの要請で、市職員が急いで市内のスーパーなどに走り、調達したものも多い。
さらに第3陣の8人が午後8時20分に、同じく公用車とトラックで出発。現地からの要請でトイレが不足していることがわかり、仮設トイレ38基を積み込んだほか、トイレットペーパー、投光器、発電機などを持参する。途中、先発隊の要請で、乳児用ミルクやほ乳瓶などを夜の越後湯沢で調達した。
第2陣、第3陣とも、道路が壊れていてトラックが町役場まで入れず、かろうじて通行できる軽トラックでピストン輸送することになった。第2陣の職員たちは、軽トラックが戻ってくる間、すぐ使えるようにとトイレの組み立ても行った。
翌25日には、町役場から離れた集落に物資を運んだが、なかでも困難だったのは「木沢」地区への仮設トイレの運搬。道路が崩れて孤立しており、軽トラックで運べるところまで行き、道が完全に崩れているところでは約50キロあるトイレを人力で運んだ。
狛江市の救援隊は、当初、自宅の建物が壊れ、多くの職員が登庁できないなど行政機能がほとんどマヒ状態に陥っていた川口町のサポートにあたるなど活躍、いまも8人体制でさまざまな支援活動を行っている。
川崎白百合ライオンズクラブ(水野英雄会長)が、新潟県中越地方地震の被災者のために10月30日・31日の午前9時30分から午後4時まで小田急線新百合ヶ丘駅南口で街頭募金を行った。2日間で集まった89万6218円は、日本赤十字社新潟支部に送金する。同クラブが街頭募金をするのは、1995年の阪神淡路大震災以来のことだ。
同クラブは、ニュース報道で地震の被害が甚大なことを知り、地震直後に街頭募金をいちはやく行おうと会員に呼びかけた。社会奉仕活動を全員参加で行うことをモットーにしているため義援金の募金活動日を週末の30日・31日と決め、道路の占有許可などの届けを済ませ、市民の理解を得るために被害実態を伝える新聞を拡大したパネルも準備した。
アクティビリティ委員長の中山厚夫さんによると「初日は雨の中での活動だったが、予想以上に感心が高く、子どもからお年寄りまでさまざまな人が協力してくれた。中には高額の募金をする人もおり感謝している」と笑顔、水野会長は「災害支援は一刻も早いほうかいいと思って呼びかけ、40人全員が時間の都合をつけて参加した。新潟はこれから寒くなるので大変だと思うが、募金に協力してくれた人の善意を伝えたい」と話している。
2003年に設立30年を迎えた同クラブは、通常は社会奉仕活動として盲導犬・介助犬育成の募金と献血を定期的に行っている。また、30年を期に自然災害の義援金などに支出する基金を作り、ことし夏には水害の被災地に送金する災害支援活動も行っている。
矢野裕狛江市長が11月2日、新潟県中越地震で大きな被害を受けたふるさと友好都市・川口町へ、街頭募金や全国から寄せられた義援金の一部500万円と市職員の義援金100万円(いずれも目録)を携え、見舞いに出かける。
これに先立ち、11月1日早朝、第2次第3陣支援隊の職員9人を派遣した。
同市の派遣職員は、川口町の災害対策本部との調整役の調査部門と支援作業を行う本隊の2部門からなり、調査隊の交替職員は10月30日に出発している。
1日に出発した9人は、10月28日(第2次隊第2陣)に現地入りした職員8人と交替し、支援物資の整理や搬送、川口町役場内の整理、町営ホテル蒼丘の内部の片づけ、支援自治体の調整役を担う。派遣期間は11月5日までの4泊5日。職員は交替要員と引き継ぎ後、狛江に戻る。同市の派遣職員は、これでのべ40人となった。
川口町と防災協定を結んでいる同市は、今後も必要に応じ職員を派遣する予定。