新潟県中越地震で、大きな被害を受け、全村民が避難することになった山古志村。
川崎市内では11月27日と28日に山古志村復興支援のため、山古志村が舞台となった映画「掘るまいか 手掘り中山隧道の記録」上映会が開かれる。
この記録映画を制作した日本映画学校顧問の武重邦夫さんから、11月6、7日に被災地山古志村を訪ねた時の様子を書いた原稿を寄せていただきました。
写真=長岡で、映画に出演した山古志村の人に再開したスタッフ(後列左から2人目が武重邦夫さん、7人目が橋本信一監督)
◆山古志の人たちは頑張っています!
「掘るまいか 手掘り中山隧道の記録」制作 武重邦夫
先週の6、7日の両日、映画「掘るまいか」のスタッフ7名と長岡へ行ってまいりました。
まずは長岡市に設けられた山古志村対策本部{臨時村役場}へ直行、長島村長や役場スタッフの方々とお会いしました。 皆さん、とても明るく元気に振舞っておられ、これが、あの大災害に見舞われた人たちか? と、信じがたい思いがいたしました。
こうした雰囲気は高校の体育館に避難している村民のみなさんも同様で、われわれ映画のスタッフの訪問を心から喜んでくださいました。
最初は、今、我々が駆けつけたところで足手まといになるだけではないかと 心配していたのですが、若いスタッフとおばさんたちが抱き合って再会をぶ光景を見て安堵しました。
山古志村に足掛け5年通い、共に映画作りに汗を流した友情の時間が、双方にとって掛け替えの無い貴重なものだったと本当に嬉しく感じました。
先行きが見えない現実の重さを思うとやるせなくなりますが、お会いした村の人々の口からは一言たりと愚痴を聞きませんでした。
なんて凄い人たちだと、改めて尊敬の念を抱いた次第です。
翌日、我々は報道の一員として広神村から撮影場所の小松倉に入れていただきました。
小松倉は最も高地に在るので山古志の中では被害が少ない方ですが、それでも半分以上の家屋は傾き、道路や田んぼ、錦鯉の養魚池はいたるところが破壊されています。
特に道路のコンクリートが大きく口を開いた亀裂は恐ろしい光景です。
「一瞬、爆弾が破裂したと思った」と言う村の人たちの恐怖が、はじめて実感出来た気がしました。
帰途、病院に入院された方々を見舞い、スタッフ達は体育館へお別れの挨拶にいきました。
私は村長に会うために対策本部に戻ったのですが、時間待ちで喫煙室に行ったところ凄い光景を目撃することになりました。
私が教育長と話していたところへ村会議員のSさんが来られ、教育長にこう云われたのです。
「先生、お願いがあります。今回の地震災害の事をしっかりと子供達に受け止めさせてください。辛い現実ですが、子供達が目を背けないように、しっかり受け止めさせてください。 お願いします」
私は胸が熱くなり思わずSさん見ました。Sさんは65歳位のがっちりした身体つきの村会議員であり、農民です。
私はこれまでに、日本の政治家からこうした言葉を、哲学を一度として聞いたことがありません。
と同時に私は、Sさんたち山古志の人たちは、先人からそうした教育を受けてきたのだと納得しました。
そうなんだ。山古志村の人たちは、手掘りで16年もかけて1000メートルのトンネルを掘ってきた人なんだ。 並みの人たちではないのだ。 我々が撮影した「掘るまいか」は過去の話ではなく、現在の話なんだと。
ちなみに、私が滞在中に課長たちと交わしたのは、総て新しい村のデザインについての話しでした。
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