神奈川災害ボランティアネットワークの呼びかけで11月12〜14日に新潟県中越地震の被災地に市民の立場としてボランティアに行った川崎市議会議員(高津区選出)の猪俣美恵さんから災害支援活動参加報告を寄せていただきました。
写真=万全の装備でボランティアに臨む猪俣さん(小千谷市のボランティアセンター、写真提供=猪俣さん)
◆支援の差や実態と合わないボランティアの手配 解決には行政の実態把握と情報収集が必要 川崎市議会議員 猪俣美恵
YMCAや社会福祉協議会が主力となって構成されている神奈川災害ボランティアネットワークの呼びかけで新潟に支援活動に行ってきました。
11月12日夜8時に横浜を出発したバスは、関越自動車道を新潟に向けて走り、11時過ぎには、宿泊場所である越後湯沢に到着しました。私の部屋は女性6人の相部屋でした。日ごろ介護の仕事をしている人や美大の生徒さんなどで平塚や海老名、相模原、東京の日之出町など様々な所から参加されておられました。
翌朝6時起床で7時半に宿舎を出発しました。小千谷市までは普段は30分で行くところを、全国各地からの支援車両で渋滞になり1時間かかってボランティアセンターに到着しました。センターは避難場所になっている総合体育館と隣接地にありました。大勢のボランティアと地元のニーズをマッチングさせる役割とシステムは、阪神淡路大震災の教訓も生かされていました。
私はすぐに5人のボランティアと民家の跡片付けに行きました。行く途中の資材調達所で必要な雑巾、バケツ、箒(ほうき)、ちりとり、ヘルメットなどを借りてから現地に向かいました。一緒に行ったボランティアは滋賀県から来た方々でした。行った先の民家は外から見ただけでは大丈夫に見えるのですが、家の中は足の踏み場も無く食器棚やたんすなどあらゆるものがひっくり返った状態でした。さらにそれらの上にガラスの破片と漆喰壁の土が覆っていました。小千谷市の家屋は被害調査が進んでいて状況に応じて赤、黄、緑の紙が家屋に貼られていました。私が行った家は黄色の紙が張られていました。基本的には赤紙の家にはボランティアは行かないことになっています。作業は最初土足で家の中に上がり大きいものを所定の場所に収め、次に掃き掃除拭き掃除と進めていきました。電気もガスも水道も通っていないので、貯めてある水や雨水を使っての作業でした。とてもハードな作業でしたが最後は素足で家の中を歩けるぐらいまでになりました。
次の仕事はセンターから車で30分ぐらい行った塩殿という地区の避難所になっているふれあいセンターに届いている各地からの支援物資を村民65世帯へ公平に分ける仕事でした。45リットルのポリ袋を65枚地べたに並べて、その中にカップラーメン・タオル・ジュース・お菓子・歯磨き粉など30種類ぐらいの物資を入れていきました。段ボール箱を抱えて中腰で配る作業は思った以上に過酷でした。ここは65世帯だけですが都市での物資の配布作業はとても考えられません。現に街中の避難所では、相変わらず支援物資が倉庫に山積みになっていました。支援物資の公平分配はたかが物資されど物資だと思います。結局大量に捨てることにも成りかねません。
その日は、こうした作業で終わり、またバスに乗って湯沢の民宿に戻りました。湯沢では、隣の大きなホテルがボランティアのために風呂を無料で提供してくださりとても感動しました。3カ月前の夏に水害復旧ボランティアで同じ新潟の中ノ島町に行ったときは、汚いままバスに乗って帰った経験もありそのことから思えば天国でした。民宿も2泊5食付で5000円という格安な上、わざわざ地元のコシヒカリの新米を出してくださるなど暖かい思いに触れました。
翌朝は昨日よりさらに早い出発でした。朝8時過ぎから作業にかかりました。その日の作業は総合体育館の中で避難生活を続けておられる方々のお世話と中の清掃その他ということで、一日体育館担当となりました。はじめは被災者の中で、介護が必要な方や乳児や病気の方たちが一階の会議室の方で生活されておられるので、その方々のニーズ御用聞きをして、布団の回りの拭き掃除や話し相手などさせてもらいました。
その中の一人から、結婚した昭和42年に宮前区の姉の家に結婚報告に行ったとき、11月の5日だと思うが溝口駅前のスギザキ時計店で姉が結婚指輪を買ってくれてそれ以後この指輪は37年はずしたことが無いといって指輪を見せてくださいました。意外なところで私の地元の溝口の話が出てきて驚きました。そして耐熱ペットボトルにお湯を入れてキルティングの袋に入れて布団の中に入れるなどいろいろな雑用をしました。
昼には、自衛隊が作った昼食のおかずやごはんを折り箱に詰めて配る作業をやり、その後体育館の消毒をしました。消毒といってもアルコールペーパーで大勢が触れる自動販売機のボタンや電気のスイッチやいすソファーなどを拭く作業でした。大勢の人が生活をしていると風邪などあっという間に感染して広がります。こんな作業も大変必要だと感じました。体育館の外では各地から来たボランティアによる演奏や料理のデモストストレーションなどのイベントが行われ、さらには自衛隊による風呂の提供なども行われていました。(風呂の湯はずーとオーバーフローしたままなので排湯はどこに流していたのか後になって気になりました。)
ただそうした励ましにもかかわらず、長引く避難生活者の顔は不安げであり、疲れきっていました。話を聞いていましたらまさに身ひとつで飛び出してきた人ばかりでした。中には、風呂に入っていたということで、まさに身ひとつで飛び出してこられた方もおられます。これから寒さも厳しくなってくるし、雪も積もってくるでしょう。正月も近づいて来るので、被災者は今以上に落ち込むのではないかと案じながら戻ってきました。
参加して見えてきた課題ですが、まず一点目はマスコミによる情報の偏りがそのまま支援活動の偏りになっていることです。マスコミが連日取り上げる地域は、支援物資も人手も届くのですが、すぐ隣で現状はもっと厳しい地域であっても、そこへはなかなか手が届いていないということです。そうした事態にならないためには、市民ボランティアだけに頼らず行政として実態把握と情報収集をするべきです。つぎにボランティアの仕事手配が実態としてのニーズにあっていなかったことです。頼む側は遠慮もあって少なめの依頼をするのですが、実際に行ってみるともっと人が必要だったり、もっと工具が必要だったりということが頻繁に起きていました。
最後に私は自分の住んでいるところに置き換えて考えてみました。川崎の人口規模を考えるとおそらく支援物資もただ待っていても手に入らないし、自分で情報を収集して自分で確保しなければならないと思います。できれば日ごろから親しくしている人たちが自分たちで場所を確保して知恵と力を出し合いながら励ましあって立ち直ることができれば良いのになあと思います。
余談ですが、地震はいつおきるかわかりませんが夜中の場合には、いつも枕元に着るものをおいておくのが良いのではないでしょうか。
◇川崎市としての課題
①市域の広さと人口規模を考えると各区の地域防災計画が必要
②災害時のボランティアの活動は今後不可欠であり日ごろからボランティア人材育成とその支援にもっと市は力を出すべきと考えます
③支援物資の公平な分配は捨て置けない課題だと思う
④地域の避難場所に指定されている施設の耐震及び空調設備の整備
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