狛江市中和泉の飯島俊輔さん(27)が、新潟県中越地震で大きな被害を受けた川口町で11月7〜10日までボランティアを行い、その体験ルポを寄せてくれました。
飯島さんは、狛江第四小・第三中・都立府中高校を経て専修大学に入学、21歳の時に東京から沖縄までバイク旅行。その後、高校の地歴教師目指し活きた教材を求めて、アメリカ、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナム、レバノン、シリア、ヨルダン、エジプト、ケニア、タンザニア、ウガンダ、ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチンを旅し、各国の気候、文化など教材研究を行っている。2002年6月にケニアのNGO活動に参加、病院建設の現場監督、孤児院の手伝いを体験した。こうした経験を生かし、現在小学校や狛江市のボランティアセンターで国際理解教育のゲスト講師などの活動を展開している。
戦争や環境破壊によって崩れてきている「地球」が、少しでも球(まる)くなるようにみんなで「一緒に」考えてようと教育関係、自然活動、NGO活動、NPO活動、冒険家など様々な人とつながるサークル「pamoja(パモジャ)」を主宰、ホームページ(http://pamoja-earth.com)
を持っている。飯島さんによるとpamojaは、ケニアやタンザニアで話されているスワヒリ語で「一緒に」という意味。
写真・上=川口町の子どもと遊ぶ飯島さん(写真提供、飯島さん)
◆ボランティア活動の繊細さ学ぶ貴重な体験 : 復興に向け、多くの人出が必要 飯島俊輔
川口町へ
10月23日、新潟中越地震が起きた。はじめは、テレビからの映像だけで情報も乏しかったが、だんだんといろんな角度から現地情報が舞い込んできた。
その情報が震災地のイメージを僕の頭の中に創り出した。悲惨な光景だ。僕なんかの力が何の役に立つかなどとは考えなかった。
「いち早く現地へ行きたい。行って少しでも現地の人の役に立ち、現状をなるべく詳細に把握し、多くの人に伝えたい。そして、僕の行動を見て一人でも多くの人が、動き出してくれれば!」という思いが僕を震災地へと急がせた。
僕は仕事の休みを取り、11月7日から10日まで震災地入りすることを決めた。
震災地入りするのにまずは、場所を決めなくてはならなかった。インターネットで調べたところ、現地の一覧表にボランティアセンターの本部と電話番号が書いてあった。山古志村や小千谷市など、テレビで報道されているところが載っていた。一番下に川口町とあった。「どこかで聞いた名前だなあ。」と思った。
「そうだ、狛江と友好都市の川口町だ。」
僕の住んでいる狛江市と川口町は友好都市という関係で、市の催し物などがあると川口町の人が来て、物産展をやったりする。また、子供たちの交流もあり林間学校で川口町を訪れたり、むこうからもらった稲を育て手紙のやりとりをしている。僕がむこうで体験してきたことを、帰ってきたら狛江の小学生に伝えれるのではないか。という思いから行き先は川口町になったのである。
ボランティアの関わり
川口町に行くことが決まり、向こうでの活動内容を見ると「子供と遊ぶのびのび隊」という活動があった。僕は現在、子供キャンプ(小学校1年生から中学校3年生対象)のカウンセラーをしている。その、経験をここで生かしたいと思った。
さて、行く準備である。僕は、100円ショップに行き、紙粘土、絵の具、筆、子供用手袋、耳あて、ホッカイロなど、子供と接するための道具を入手した。あとは、食料である。基本的に食事は自足を求められた。水、ご飯、カレー、インスタントラーメン。
これだけあれば、4日間程度は楽にしのげる。あとは、もし現地の人と機会があればと2リットルの酒も買った。これらと衣類、テント、寝袋を入れたところ60リットルのリュックはパンパンでボストンバックも1つ抱えていくことになった。やはり、「現地の人にすこしでも」と思ったホッカイロや衣類を欲張りすぎたようだ。
川口町へは高速バスを乗り継いで行った。まず小千谷まで行き、そこから十日町行きのバスに乗り、越後川口インターからは40分ほど歩かなくてはならなかった。
あまりの荷物の多さに休み休み行く事になったが、なんとしても届けたい。という思いが背中を押してくれた。30分ほど歩くと地元のおばあさんが「まあまあでっかい荷物背負って大変だねー」と走っている地元の車を停めてくれ僕をボランティアセンターまで乗せてってくれるよう頼んでくれた。ドライバーの方も快く引き受けてくれた。僕は、さっそく川口町の人の温かさに触れることができ、これから4日間の活動へ改めて気持ちを入れなおした。
深い心の傷
しかし川口町での、ボランティア活動で最初に感じたのは、「人々の心の傷つき」であった。
道路が崩れ落ちているのや、建物が倒壊しているのにも確かに驚いたが、テレビで報道されているのが目の前にある。っていう程度のことだった。
しかし、人に対しては違った。僕は、着いた初日、ポータブルトイレを避難所に持っていく活動をした。
避難所に着くと規則正しく40ほどのテントが張られていた。あたりは、静まり返っており人の気配はしなかった。ようやく一人の老人が出てきた。僕は声をかけた。「すみません。ボランティアセンターから来たものですが、ポータブルトイレをお持ちしました。」
老人はすごい形相で歩み寄ってきた。「そんなもんいらねえ、持って帰れ!」と言われてしまった。詳しく話を聞いてみると、ほんとに物が無くて大変だったのは震災直後の4、5日だったそうだ。今は仮設のトイレもあるし、なんで今さらポータブルトイレなんか持ってくるんだ。ということだ。そして、ここで避難所生活をおくっている
人々は、もともと河川敷に張られたテントで生活していたのだが、ダムの決壊の心配がでてきて移動させられたのだ。ここの人々は疲れ切っていた。
そして、今までに来たボランティアの人で避難所の様子を写真に撮っていた人もいたため、避難所の人からしたら「ボランティアなんて観光気分で来てるんだろ。」といった捉え方なのだ。被災者のためになるべきボランティアというものが、時には被災者を傷つけてしまっているのである。テレビからでは伝わってこない人々の「心の傷つき」を感じた。
そして、ここで聞いた話でもう一つ気になったのが、お風呂の問題だ。
現在お風呂は、信濃川河川敷に自衛隊によって建てられたものを使っている。
外見はまるでサーカス小屋だ。緑の大きなテントの中に入ると、2メートル4方の大きさの浴槽が2つ並んでいる。その周りに腰を下ろし人々は身体を洗っている状態だった。どうやってお湯を供給しているのだろう?テントの裏のボイラーで沸かし太いホースで供給していた。では、流してるお湯はどこに流されていくのだろう? 見たところ、すのこの下に見える砂地に垂れ流しだ。それなら、もちろん置いてあるシャンプーも環境のことを考えた特別なものだろう。しかし市販のものだ。川口町に関わらずこのあたり一帯は、皆さんご存知の魚沼産コシヒカリの産地であり、住民の人の水や土壌に関する思い入れは特別なものである。
この事実に被災者の人々の憤りは募るばかりであった。
目先の救援と先を見据えた復興は同時進行できないのであろうか。
2日目からは、子供と一緒に遊ぶ活動をした。
「のびのび隊」と呼ばれるこの活動は、避難所や人々が暮らしている施設を午前午後で2箇所回り、集まってくる子供と遊ぶのだ。サッカー、バドミントン、ドッヂボール、お絵かき、じゃんけん。というのも、お母さんたちは老人のお世話と家のことで手一杯になってしまい、子供と遊んであげる時間がないからだ。子供たちは無邪気に遊んでいた。
地震による心の傷は無いように見えた。みんなで楽しく遊んでいると「キャーーッ!!」という声と共に子供が座り込んだ。震度5の余震だった。さっきまではしゃいでいた子供は僕たち大人に抱きついてしまい離れない。傷ついていないなんてとんでもなかった。この時も、「心の傷つき」を目の当たりにしたのだった。
今はようやく避難勧告も解け、人々のボランティアに対する受け入れ方も変わってきたようだ。これから家の解体やらで人手が必要になるだろう。しかし、家はすごくプライベートな空間だ。そこにボランティアが入ることによって様々な問題が出てくるに違いない。
これからが本当の復興であり、助けを必要とする時だ。ボランティアの関わり方をうまく機能させないと川口町の復興には結びつかないだろう。
簡単にできると思っていたボランティア活動がこんなにも繊細なものなのだと、改めて感じた今回の活動だった。
写真下=陥没した道路(写真提供、飯島さん)
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